''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

108回目のアプローチ

長いもので私のブログも今日で108回目の節目に当たります。
108回と言えば除夜の鐘を思いつき、年末のコラムや記事に108の由来が紹介されています。人間の煩悩と関係があるようですね。

分かりやすいホームページから参照させてもらいました。
108という数が人の煩悩の数だというのは有名ですが、その108という数の由来については諸説があります。まず、108の煩悩は人間の感覚を司る眼(げん)耳(に)鼻(に)舌(ぜつ)身(しん)意(い)の六根が、それぞれに好(気持ちがよい)悪(いやだ)平(何も感じない)不同の3種があり3×6=18の煩悩となり、これが、また浄(きれい)染(きたない)の2種に分かれ18×2=36の煩悩となり、さらに、現在・過去・未来の3つの時間が関わって、36×3=108となります。これが、108の煩悩だといわれています。(株式会社越前屋「除夜の鐘」より)

何か分かったような分からないような説明ですが、体の状態に関係する様です。健康な体に健康な精神これが中心をなしています。「六根清浄」つまり身も心も無垢清浄になろうという祈りの言葉が「六根清浄」であり、それが「六根浄」となり、「どっこいしょ」となった。(佐藤俊明のちょっといい話より)  佐藤俊明のちょっといい話

さすがに 「六根清浄」が「六根浄」となり、最後に「どっこいしょ」になったと言う話には驚きました。仏教者がそうおっしっているので間違いないのかもしれません。日々の生活の中で知らず知らずに難しい仏教的な話や言葉を使っているんですね。改めて色んなことは繋がっているんだと教えられます。

でも六根が体と精神を指す言葉であるようですが、その中にある「眼」「舌」「鼻」「耳」に注目にします。

仏教的立場からすると特に禅的な立場からすると生活すべてが修業であると言われます。
食事も修業です。朝起きてから寝るまで、もっといえば寝ているさなかであっても修業中であります。

目の前にありながら見えていながら見ていないことありますよね。人間の目は都合よく出来ています。見たくないものは見えません。興味がないものは見ても記憶されません。日々の生活の中で見ているものは膨大です。一々記憶していれば頭がおかしくなります。興味があることが薄れて希薄になっているのかも知れません。

「舌」「鼻」「耳」も同じことが言えます。なれてしまって何も感じなくなっているか?
もしくはもっと強い刺激を求めるかです。日々の生活の中でも心静かに過ごす時間はあるはずです。一人の時間です。物理的に一人の時間を言っているのではありません。

精神的な面から一人になれるはずです。

目を閉じ、耳を澄ませてゆっくり呼吸する。

人の営みの集約です。息を整える。わずらわしさを気持ちの中に持ち込まない。考えていることすら考えない。意識しない。心に「無」を作ります。

「無」はなにもない状態ではありません。「有」があるから「無」があるだけです。「無」は「0(ゼロ)」ではありません。

空(カラ)の状態であると考えます。コップが空(カラ)になっているだけです。コップは依然としてあります。コップの水かあるかないか、その意味では水は入っていません。でも水を入れることはいつでもできます。コップがないと水を入れることが出来ません。

一時水を入れずに空にすることは出来ます。コップは人の気持ちそのものです。大きい人もあれば小さい人もあります。長い人もあれば平たい人もあります。注ぎにくい口をしているものもあります。

持って生まれたものでもあり、人として成長の過程で自分でも変えることも出来ます。

でも、そのコッブに水は入っていますか?
欲張って口でお迎えするほど入ってはいませんか?
1リットルのコップに2リットルは入りません。
無理をしすぎていませんか?

自分に合った水の加減があるはずです。傷んだ水なら捨てて美味しい水入れ直すことも出来ます。汚れた水なら洗って、きれいな水入れればいいじないですか?

「雲は天にあり、水は瓶(コップ)にあり」でしょうか。(機会があれば紹介します。)
いやなら、いつでも水は取り替えられますよ。

コップに水入れるとき「感謝」も一つまみ入れて下さいね。
コップの水がきれいになりますよ。

とんだ108回となりました。難しく考えないで水だけに軽く流して下さい。
今日も長いプログにお付き合い下さってありがとさんです。