''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「赤とんぼ」と「三木露風の見た風景」

「赤とんぼ」(作詞 : 三木露風、作曲 : 山田耕筰)は、日本の代表的な童謡の一つである。三木が1921年(大正10年)に、彼の故郷である兵庫県龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ、童謡集「眞珠島」に発表された。その後、1927年(昭和2年)に山田が曲をつけた。秋の夕暮れの美しい風景を、抒情感あふれるメロディで奏でている。2007年(平成19年)に日本の歌百選の1曲に選ばれた。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』参照)

一.夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
  おわれて見たのは、いつの日か

二.山のはたけの、くわのみを
  小籠(こかご)につんだのは、まぼろし

三.十五で姐や(ねえや)は、よめに行き、
  おさとのたよりも、たえはてた

四.夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
  とまっているよ、さおの先


三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日- 1964年12月29日)は兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市、現在のたつの市)出身の詩人。本名は三木 操(みき みさお
明治22年(西暦1889年)6月23日、父節次郎、母かたの長男として、兵庫県龍野町(現たつの市)に生まれました。父は龍野脇坂藩の寺社奉行を務めた制(おさむ)(九十四銀行頭取、初代龍野町長)の次男で、当時は父の銀行に勤めていました。母は鳥取池田藩の家老和田邦之助の長女で、その重臣の堀正の養女となり16歳で三木家に嫁ぎました。名門の家の出自です。

露風満5歳の頃、両親は離婚、母は弟を連れて鳥取に帰ってしまいます。残された露風は祖父母の元に引き取られて、伯父の家族と同居することになります。

 父はやがて別に新しい家庭を持ちます。幼くして父母の愛を失ったことは、こころに大きな傷あとを残します。

 父のことについては語らない露風でしたが、祖父の面影や思い出についてはしばしば記しています。それによって露風の幼少時の様子を知ることができるとともに、愛情に満ちた祖父対して露風が感謝の念を抱き続けておりました。
 ( 『三木露風童謡詩集』 ネット武蔵野刊 一部参照 )

また、1916年から1924年まで北海道のトラピスト修道院で文学講師を務めた。この時代に名作「赤とんぼ」が出来たのです。1922年にはここで洗礼を受け、クリスチャンになっています。
1964年12月21日にタクシーにはねられ、同月29日に脳内出血のため死去。享年75。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』参照)


子供の頃不思議な歌だと思っていました。

「姐(ねえ)やは、15で嫁に行き、お里の頼りも絶え果てた。」
このフレズに違和感がありました。里の頼りもない。薄情な家庭であると思ったものです。でも、この姐(ねえ)やは、実の姉でなく子守に雇われた使用人でした。

この姐(ねえ)やの背中から見た風景です。結婚したので連絡も取れなくなってしまったのでしょうね。この時代、田舎では15歳で嫁に行くのが普通だった時代です。数え年です。満で言えば、13歳か14歳ということです。今では考えにくいですが、現在でも色々な諸問題から女性は16歳から結婚できます。男は18歳と違いをもうけられています。

この背中は「母」なのか「姐や」なのか論争がありましたが、本人の製作中の文章が出てきたことにより、姐やであることがはっきりしています。この歌にも「母」の姿が出てきません。意識している故に「母」のイメージを幼こころに「姐や」に求めたのかもしれません。

この歌には場所がありません。日本の風景であり、それぞれの思い出であり、郷愁であるところが多くの人の共感を得られていると思います。

人が持ちえているものは様々です。人それぞれに違った人生を持っています。
幸せであったか不幸であったかは、自分の気持ちの持ちようではないかと思います。

お金はあっても、求める愛情があるとは限りません。求めるものとは違った愛情もあります。露風は両親の愛には飢えていましたが、祖父母の愛情には満たされていたようです。

その満たされた愛情の果てにキリスト教との出会いがあり、今度は与える側に立つと立場に変えて、もっと多くの愛情をそこに求めたのかもしれません。
名曲「赤とんぼ」には、そんな愛で満たされています。

どんな時にも「感謝」の気持ちは必要です。生きているわけでなく何かの力で生かされています。それに「感謝」したいです。

最後まで長々としたブログお付き合い下さいまして「感謝」します。
ありがとさんです。