''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

家族内での痛ましい悲劇と報道

最近、家族を殺害する痛ましい事件が多く報道されています。子が親を、親が子を自分の手で命を奪う。

痛ましいとしか言う言葉がない。

言うにいえない事情があったのかもしれないが、報道の情報からすると、自己中心的な短絡な犯行と見える。真実はどうであれ、身内を手にかける。想像すらつかない惨劇です。

刑法にかつて、尊属殺人罪というのがありました。もともとの殺人罪より、罪が重く定められていたのです。1973年4月4日に最高裁違憲との判断が下っりました。よって、現在では刑法200条 尊属殺人罪は削除されています。つまり、現在はありません。

尊属殺とは、殺人から見た場合、両親や祖父母などあたる親族、つまり尊属を殺害することです。よって、子供や孫に対する殺人に対する罪は、もともと存在しません。他人を殺害したのと同じ罪となります。

この違憲判決の事件自体、特異性があり、非道な父親に対して、娘の主張・言い分に正当性が感じられた事件です。今日の尊属殺人とは少し性格が違います。調べて頂ければすぐに判ります。ここでは触れません。

そのため多くの先人の知恵と苦労の末に勝ち取った、違憲判決でありました。その賛否はあるにしても、世間が、社会が、法律が、家族の家族に対する殺人を考えさられた出来事です。

今考えて見るとそれが良かったのか、悪かったのか短絡的に結論は出せません。

こんな社会が来ようとは、1973年(昭和48)当時は考えもしなかったでしょう。
ごくまれに起る事件から、ワイドショーの常連化する特異な犯罪となりつつあります。

現代社会では、猟奇的な自己中心的な事件が後を立ちません。
どこに原因があるのか、何が悪いのか、単純な理由すら思い浮かばない状態です。

人として生きるとは、何なのか?

私がいつも言う、人は何かの力で生かされていると言うことの本質を自問する日々です。

でも、人は偶然、たまたまここに存在していません。生かされています。天命を帯びてここに存在しています。生きている、生きてやっていると履き違えてはいけません。

社会が変異しようと人の営みは変りません。貧富の差にかかわらず、人は必ず死ぬと定められています。例外はありません。

この期間は与えられたものです。誰に与えられたかは人それぞれ捉え方が違います。

その期間をいかに有益に過ごせたか、それがその人も価値であり、評価でもあるように思えます。偉人である必要はありません。今日一日を充実して過ごす。これだけだと思います。それを高めてくれるアイテム、それが「感謝」です。

日々嫌なことも多くあります。くよくよして生きても一日、楽しく笑って過ごしても一日です。

どちらを選ばれますか?

気持ちを上手に切り替えることが、人生を充実して楽しく「幸せ」に感じる方法です。

幸せか否かは、あなたの気持ちの持ちようです。幸せは、相対的なものです。絶対の幸せは有りません。

「感謝の気持ち」を一振りすると「幸せ」に変ります。

くれぐれも「感謝」の振り過ぎに注意して下さい。腱鞘(けんしょう)炎になりますよ。(^O^)

今日も雨ですが、家族とこころを通わせる時間を頂いたと思って、一緒に美味しいものでも召し上がったらどうでしょう。

今日も最後までお付き合い下さってありがとさんです。お礼申し上げます。