''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

変な茶人 丿貫(へちかん)に学ぶ

皆さんは、安土桃山時代の茶人と言えば、千利休をまず上げられますよね。

また、古田織部などの武将の茶人を上げられるかもしれません。

ソンナ中にあって、丿貫(へちかん)と言うちょっ変わった茶人もおいでです。

美食マンガの美味しんぼの 登場人物の中に「丿貫」と名乗る茶人がいる。1つの釜で飯を炊き、茶の湯も沸かしている茶人です。鍋の話に出てきたと思います。もてなしの心を取り上げた話です。でも、安土桃山時代の茶人ですがね。歴史上の人物です。

美味しんぼには多くの話が出て来ますが、例えば魯山人の実際の話を使っているものも多いです。また、時代を超えていろんな人を出しています。その中にこの変な茶人丿貫(へちかん)もいます。

以下丿貫(へちかん)について正確を期すため他の記述を引用します。

丿貫(へちかん、べちかん、生没年不詳)は、戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人。名の表記は、丿恒、丿観、別貫などとも。なお「丿(ヘツ、ヘチ)」は、カタカナの「ノ」ではなく、漢字である。

京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも言われる。一説に拠れば医師曲直瀬道三の姪婿だといい、武野紹鴎の門で茶を修めたという。山科の地に庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって知られた。

久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)によれば、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が主催して行われた北野大茶湯野点において、丿貫は直径一間半(約2.7メートル)の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜ったという。

江戸時代中期に成立した藪内竹心の『源流茶話』によれば「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」と書かれており、当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追求していたようである。

同じく久須見疎安の『茶話指月集』には、丿貫が手取釜1つで雑炊も煮、茶の湯も沸かしたなど、清貧ぶりを伝えている。いっぽうで、当時の茶人・数寄者との交流もあり、特に千利休とは親交していたという。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より抜粋)


どれもちゃんとして書物です。でもその記述されている部分は少ししかありません。やはり、風変わりな茶人としてのイメージが強かったのでしょう。

でも、この安土桃山時代はすごい時代です。

天才的な武将が多く輩出されています。武将だけではありません。着物の技術であったり、絵画の世界であったりと現在に大きく影響を与えています。

「天才は同時期に多く生まれると」誰が言ったのを記憶しています。
それだけでなく、いろんな物事に広い目で評価できる価値観があったのだと思います。

現在はどうですか?

決まりきった評価の中で才能を開かせようとする世間の目がありません。

人は個人です。個が個を持っている。10人10色です。でも、個性を大切にすると言いながら、個性をはき違えています。自分勝手と個性は違います。

個を大切にすると言うのは、社会も大切にする。他人様の個も大切にする。人が人を気遣う事だと考えます。

この安土桃山時代、丿貫は変わった茶人ですが、茶の心であったり考えであったりしたものがハッキリ自分の中で確立していた。ですから、利休もそれを否定しなかった。ですから、北野の茶会でも、秀吉はそれを認めたのだと感じます。

自分をしっかり持つこのことが個性であり、自己の確立であると考えます。
いま振り返って、それが私にあるだろうかと自問します。

それでいいんです。

人様の評価も大切です。でも、あくまでもそれは後から付いて来るものです。

世間の顔色を伺いながらでは良いものは出来ません。
でも、成功しても失敗してもチャンスがあったことに「感謝」したいです。

天から人としての与えられた時間の長さはそれぞれ違います。
しかし、時間は貧富にかかわらず平等です。
24時間に使われるのか、24時間を使うのかは個人の捉え方です。

変な茶人丿貫を通して、この変人はこんなことを学んだような気になっています。思い上がりかもしれません。笑ってください。

最後までお付き合い下さいまして、ありがとさんです。