''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

名物庖丁正宗を観る。(下)

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  (『日本の美術3』NO.142 正宗<相州伝の流れ>  至文堂出版 を引用)
写真は、これは日本刀の短刀ですが、どう見てもやっぱり庖丁です。
三口ある庖丁正宗の二口目です。日本刀は振り(ふり)と数えます。字に表記するときは「口」と表記して読むときは「ふり」と読みを入れているものがあります。

 

昨日に続き、庖丁正宗の話をします。

 

日本刀や刀と一口に言っても言いますが、幾つかの種類に分けられます。基本的な分け方に太刀と刀があります。簡単に言えば太刀は佩(は)くもの、刀は指すものです。太刀は刃を下にして腰に付けます。刀は刃を上にして腰に付けます。ですから、作者の銘で太刀か刀かが決まります。もちろん例外はあります。

 

また、太刀の方が長さが長いです。馬上から日本刀を抜いて相手と切りあうのですから、短いと武器になりえません。ですが、戦国時代には鎌倉時代のように「ややー、我こそは・・・」と名乗りを上げず、一騎打ちもほとんどありません。鉄砲が雨あられ、弓が無数射られる中では馬鹿ですからね。

 

戦いも変わって来て、長い太刀を短く磨(す)り上げて使うようになります。ですから、太刀も刀のような寸法になります。多くの太刀も刀としての寸法に磨(す)り上げられていきます。

 

太閤秀吉に至っては短刀の名手吉光の唯一の太刀「一期一振」を自分のサイズに短くしてしまいます。秀吉は戦国時代にあっても大夫小柄です。ですから大変短くなっています。

 

自分の腰に付けた時に長いと太刀を引きずって見栄えが悪いからです。何百年間、誰もそのようなことは考えもしなかったはずです。さすが天下人です。凄すぎます。

 

その他の分類に、脇差、短刀があります。総じて脇差は刃長2尺未満、短刀は刃長1尺以下です。脇差は刀の横に添えて持っていたので脇差です。刀より短いので、相手の首を掻っ切るのに適しています。

 

短刀も最後の武器であったし、公の場にも持込が出来る最小の武器であり、武士の精神的に支柱であったのかもしれません。鎌倉時代中期より作られることになります。

 

九州では下級の武士がこれを棒の先につけ、長巻や槍の代用の武器として使われるようになります。菊池槍などがこの原型です。
ここに紹介するような短刀は、もっと身分の上の人が使います。

 

正宗には十哲と呼ばれる高弟がいます。本当の高弟かは疑問もあります。時代も作風も違いながら名前が連なっている刀工もいます。初めから十哲という名前だけがあって後からそれを生めて行ったものと考えられます。もっとも確かのは養子の彦四郎貞宗(さだむね)です。この方も名刀工です。すばらしい作品が残っています。

 

でも、その筆頭格が越中郷(ごうの)義弘(よしひろ)と言っていいでしょう。
詳しいことは分かっていませんので、歳の離れた兄弟弟子であった可能性もありますが、ほぼ師弟関係であると考えられます。
俗に「郷(ごう)とお化けは見たことがない」と言われます。郷は江とも書かれます。こうと表現する音するのかとも思います。

 

正宗は鎌倉幕府のお抱え刀鍛治です。役人です。ですから、正宗ファクトリー(工場)と言えます。誰が作ったかでなく、総責任者が正宗社長なんですね。番頭筆頭が義弘です。日本中の刀鍛治の二代目・三代目が正宗工場で修業しに来ます。ちょうど老舗料理の若ボンが有名店で修業して箔つける様なものです。

 

刀は三人一組で刀を打ちます。「トン・テン・カン」「トン・テン・カン」と決まったリズムのもとに刀を打ちます。しかし、一人でも和を崩すと「トン・チン・カン」と変な音になります。そう今でも理解の悪い人の事をトンチンカンといいます。あれですよ。

 

現在にも日本刀の用語が残っているんです。あの人とどうもそりが合わないんです。そのそりも日本刀の用語です。切羽詰まる。鍔(つば)ぜり合いをする。
なども今でも日常使われています。

 

明治の末から大正にかけて正宗は捏造された架空の人物であるとの説が出てきます。
歴史的現実の人物です。でも、正宗は正宗個人でなく、正宗ファクトリー(工場)の責任者社長です。ここで作られたものがすべて正宗印なんです。誰も正宗自身が作ったとは言っていません。番頭の義弘(チーム義弘)が作ることも、総領の二代目社長の貞宗(チーム貞宗)が作ることもあります。注文が多いんですから、仕方ないです。その頃は個人の作品としての価値がそれほどなかったでしょう。出来がいいか、悪いかだけです。

 

でも中には、こんなこんなのを作ってほしいと別オーダーが入ることもあります。また、贈答用にと特別金銭で申し出があるやも知れません。そんなときは別に銘を入れていたのかもしれません。短刀にだけに正宗の銘が入ります。太刀や刀に銘があれば偽物です。

 

ただし、正宗と称する刀工は時代を超えて幾人もいます。相州五郎入道正宗はたった一人です。太刀で数千万円を越える値が付きます。億の値が付いたのを見た事もあります。

 

誰が買うかって、本物ならすぐに売れるんですよね。めったに出ません。ソンナの買ったらすぐに税務署が来ます。

 

短刀は江戸時代に作られなくなります。短刀を身につけることが無くなるからです。
江戸時代は、幕府の定めにより、刀の寸法が決められます。何度か変化もあります。

 

江戸時代は、武士を「二本差し」と呼びます。刀と脇差の日本を指します。公式な場にも短刀でなく脇差が正式な身に付けて良い刀になります。刀は出入り口で預けます。もって入ることは出来ません。ですから、短刀が作られることも少なくなります。

 

刀は武士しか持つことを許されていません。町人でも刀を指すことを許される身分の方もおいてです。特別な許しがあった場合のみです。脇差は町人でも持つことが許されます。

 

水戸黄門の助さん格さんはこの脇差を指しています。護身用です。旅の町人もこれをつけて身を守ったようです。抜くことはないと思います。抜けば死を意味しますからね。

 

大坂の裕福な商人は、金に糸目をつけず脇差を注文します。日本刀でなく工芸品です。蒔絵に螺鈿と大変豪華です。ですから、大坂は商都でありながら、刀鍛治の名工を多く輩出しています。津田越前守助広、河内守国助、井上真改などが代表格でしょうか。長谷川平蔵の世界ですね。池波ワールドに入ってしまいそうになります。

 

短刀や脇差は武士の精神の支柱だけでなく、男のダンディズムが見えます。現在で言えば時計や車でしょうかね。高級なロレックスや高級車ベンツと言うところでしょう。

 

江戸時代も現在とあまりそういう意味では人の営みに代わりがありません。

 

歴史は繰り返します。でも私は刀の文化を悪いとは思いません。武器としてでなく、精神的な象徴として捉える事が出来ます。

 

とくに、この庖丁正宗は、武器としてでない日本刀の象徴です。

 

私にはやっぱり庖丁に見えますね。正宗もそう思って作ったに違いないですね。時代が下がって江戸時代にもこの正宗の庖丁の写しが作られています。こんなの指す武士がいるとは思えません。でも作り手は作ってみたくなる不思議な日本刀です。何かをそこに求めているんでしょうね。

 

正宗は鎌倉末の人物ですが、後の日本刀に大きな影響を及ぼします。後世の日本刀の大半は、相州正宗の影響を受けていると言うって過言ではありません。

 

その原点が何かこの庖丁正宗にあるように思えます。

 

日々の生活の中で歴史に触れています。
やっぱり、ありがたいことです。歴史は、現代につながっています。こうしたものを後世にも伝えるのは私たちの役目かもしれません。

 

今日で8月も終わりです。
最後になんでも好きなこと書こう二回に亘って思うままにかけたことは幸せです。

 

自己満足かもしれませんが、自分のわけの分からない主張を書けるプログに感謝したいです。
間違いもいくつもあると考えています。指摘して分かることもあります。
諸先生、諸兄間違いがあればご教授下さいますようにお願いします。

 

長々と最後までお付き合い下さいましてありがとさんです。