''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

つぼみの妙

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花は、季節を教えてくれます。春には春の、夏には夏の花が咲きます。
四季の移ろいを教えてくれ、心癒してくれます。
ときに花をじっと見る。その間だけは心を空に心のそこから花を堪能します。

私が好きな言葉「逢花打花 逢月打月」(花に逢えば、花をたし。月に逢えば、月をたす)です。
意味は、飽きるまで堪能するそういう意味です。打(た)すとは、心を打つという意味です。時間的なものでなく、1分でも5分でも同じです。心のバッテリーの用量は人それぞれ違います。

こんな年(結構おじさんです)して花に癒されるとは思っていませんでした。
自然の摂理そのものかもしれません。
花は嫌いと言う方少ないですよね。香りが強いと嫌になることもあります。
窓を開けて、風に運ばれる花の香りは、なんとも情緒があります。

花は咲いている姿だけが美しいわけではあれません。
私はどうも「つぼみの花」にひかれます。つぼみの花に何かあるのでしょうか?
今から咲く準備期間がつぼみです。運悪く開かないこともあります。
でも成花にない美しさがあると思うんです。勝手な解釈かもしれません。
想像の産物かもしれません。

人も同じかもしれません。成功する前に必ず準備の修業時代があるはずです。
雑誌『日経PC21』2008年10月号に、日本画家 千住博さんの「修業時代」と題する記事があります。千住博さんと言うとそのご兄弟も音楽の分野で有名です。
日本画家として肩書きのほかに、京都造形芸術大学の学長も勤められています。多くの講演やイベントにと大変多忙な生活を送られています。

記事の中に「私は大学を入るのに二浪しています。大学院を出て画家として食べていけるようになるまでは四畳半の部屋に暮らし、昼は美大受験のための予備校教師としてやっていました。はたから見れば、その頃が私の修業時代でしょう。しかし、私はそれを声高に言いたくはない。なぜなら『あれは修業時代だった』と言う人は、その後、劇的な展開があって、『自分は成功した』と満足している人だから。つまり、修業時代はもう終わった、オレはえらくなったもんだと言っているようなものです。・・・・・・」と述べられています。最後にそう思った瞬間に輝きを失ってしまうと自論を述べられています。

いい話ですが、すこし違和感を覚えています。常に今でも修業時代と思いたいと言う結論はよく分かります。しかし、修業時代か成功者かを論じることすら意味がありません。成功者になって自分のやりたいことができるなら、それは幸せなことです。成功者になって、いろんなしがらみからやりたくないことも増えるはずです。それも仕方のないことです。

ですから、修業時代かそうでないかを論じること自体に無意味を感じます。

花はつぼみであろうと成花になろうと何も言いません。自分が自分過ごしているだけです。
いつか枯れます。それも自然の摂理です。文句一つ言いません。人も同じだと思います。
今日を精一杯生きる。それだけです。

忙しいのはありがたいです。必要とされています。

社会にか、家族にか、それは人それぞれです。でも必要とされているんです。

忙しくない方は、それも幸せです。

休みたいと思ってもなかなか休めない方からすればありがたいことです。人は何かの力で生かされています。生きているのではありません。

天命を全うするそれが人の道ではないかと思います。芸術や政治だけが天命ではありません。家族の為に生きるのもあなたの天命かもしれません。人の為に生きれることは幸せです。ありがたいと思い、感謝の念を持てば大抵のことが納得できるはずです。

納得できないことも世の中多いです。でも、天網恢恢 疎にしてもらさず(てんもうかいかい そにしてもらさず)です。悪いことはできない。報いは必ずやってきます。悪の栄えた試しはない。そんな意味です。(菜根譚に出てきます)

今日も心穏やかに過ごして下さい。
まだ昼間の残暑はありますね。夏の疲れが出る頃です。ご自愛下さい。

最後までお付き合い下さいましてありがとさんです。