''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

京都東山散策  安井の金比羅さん

安井の金比羅さんは高台寺二年坂の突き当たりのを東に坂を下って行ったところにあります。東大路の交差点付近に鳥居があります。長細い参道を東に歩みを進めます。

とりあえず「悪縁を切り、良縁を結ぶというご利益で有名」な神社さんです。
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 藤原鎌足がこの地に一堂を創建し、藤を植え、藤寺と呼ばれていたことに由来します。後に崇徳天皇(後の崇徳院)がこの藤を好まれ、讃岐の地で御隠れになった崇徳天皇の霊を慰めるため、後白河法皇より建治年間(1275~77)、観勝時として建立される。

 その後、一時応仁の乱により荒廃するが、1695年太秦にあった蓮華光院が移された折、その鎮守として讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主(おおものぬしのかみ)と源頼政を祀り、安井の金比羅さんと呼ばれるようになる。明治時代に安井神社となり、戦後現在の名となったようです。
 
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もともと金毘羅さんとはインドの鰐の神様に由来するとも聞いたことがあります。海上の安全を守る水にかかわる神様が、日本の瀬戸内の海上安全を守る神様へとなったものでしょう。当時は、海上を物資が多く行き交い、ここに巨万の利益があったものと思われます。平清盛が兵庫福原の地に都を移すことも、安芸国厳島神社をお祀りしていたのも関係が深いです。平家が源氏に追われ、西に西に逃げるのにもこうした訳があったことになります。(あくまでも私見・私訳です)

「  瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわんとぞ思う 」
      77番 崇徳院 小倉百人一首より

(意味) 川の瀬の流れが早いので、岩に堰(せき)止められた川の水が、一度は二つに分かれても、後で一つになるように、私達もたとえこの世で一緒に結ばれなくても来世は必ず結ばれようね。

いつもながらの私見交じりの意訳です。意訳過ぎますね。恋の歌です。(専門家のお叱りご容赦下さい)

崇徳院(1119~1164)
崇徳院(すとくいん)は、第七十五代の天皇です。父(?)の鳥羽天皇とは、もともと不仲で若くして退位に追い込まれました。父の死後、保元の乱に関与し敗者側になったため、讃岐(香川県)に流されてその地で崩御(亡くなる)されました。

もともと、崇徳天皇鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父白河法皇と、白河が後に鳥羽に与えた待賢門院との間にできた子であったためとある。父・鳥羽がそれを知ったため、崇徳を「わが子にして祖父の息子(自分の叔父)」と言う意味で「叔父子(おじご)」と呼んだという。ただし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性には疑問も残るとある。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)
この話は有名な話であることも事実です。後で付け加えらたのか、真実であったのかは知るすべもありません。

それ以上に崇徳院(鳥羽天皇)を有名にするのは落語の『崇徳院』でしょうね。大変女性に人気のある話です。切ない「恋ばな」です。

若旦那、作次郎の「恋わずらい」の為に幼馴染の熊五郎が、相手の娘さんが置いていった崇徳院の歌を手がかりに相手の娘さんを探すと言う一大スペクタル冒険コメディーの話です。演者の腕によってはなんとも色っぽい落語になります。

「メルアド教えて?」「ええよ。後でメールして」とは、艶っぽさが違いますよね。

そんなわけで恋とか良縁なんていうのが、この神社さんのポイントです。
この神社さんには「縁切り」、悪い縁を切り良縁を結ぶことが出来る秘術があります。札を求め石(「縁切り縁結び碑(いし)」)に空いた穴をくぐってもう一度返って来る。そしてお札を貼る。これが秘術です。
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物凄い紙の札(形代)が貼られています。でも、札の願い事には「欲」しか見えません。この欲が悪い縁を引っ付けるのでしょうね。ほぼ女性がこの穴をくぐる順番を待っています。

迷える子羊に幸あることを祈ります。「幸せ=お金」の図式を捨てきれないと幸せにはなりませんよ。お金はあればあるで悩み事も多いです。なければないで悩み事も多いです。

私はこの秘術は受けておりません。切る悪縁もありませんし、良縁はあればそれはラッキーなだけです。まずは神仏に手を合わせることを先に行いましょう。

こんな散策も楽しいです。感謝感謝です。
景色だけでなくいろんな人間模様もそこにはあります。
恋多き女性の一面でしょうかね。

明日は、絵馬について見て頂きます。
いろんな絵馬があります。面白い絵馬が掲げてあります。

最後まで読んで下さってありがとさんです。