''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「座辺師友」に学ぶ。

北大路魯山人と言えば、陶芸家で、書家であり、特に美食家として有名な御仁です。
コミックの『美味しんぼ』の影響もあり若い方でもご存知ですね。

料理を芸術の域にまで高めた功労者であることは否めません。
また、料理人が白衣を着けて厨房に立つのもこの方の発案だと聞いています。
時代劇などでは料理人は普通の着物に斜めにたすきがけしているイメージがあります。

書家としての作品も多く残しています。素人的に見てとてもすばらしいものと感じる作品とそうでない作品の両極端に感じるのは私だけでしょうかね。
陶芸の作品もしかりです。大変すばらしいものも多くあります。しかし、どうも納得のいかない作品もありますね。

そのため、極力本物を見るようにしています。何年かに一度魯山人展が行われるので、そのときは本物に出会える機会です。いける範囲で行くようにしています。
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また、京都生まれもあり、魯山人の常設の美術館もあります。祇園北側の可必館もその一つです。この美術館凄いんです。作品もいいものが置いてあります。

ここの一番は、ビルの最上階に、紅葉が一本植わってます。和室もあります。そこに作品が部屋のしつらえとして展示されています。なんともいえない紅葉です。一面の大きなガラス越しに絵画を見ているかのような風景です。それを皮の長いソファーに座って時間を忘れてながめるのが大好きです。この美術館でもっとも長くいる場所のひとつです。

料理も芸術と言う境地はすごいですね。不遇な子供の頃、養父に気に入られるため、しし肉の目利きを高めた話はすこし感動しましたね。食べるのが人を幸せにできることをいち早く体感したのかもしれません。

ですから、魯山人料理はその意図するところが常識の概念がないですね。陶芸も陶芸としての作品でなく、料理を盛る器として考えていましたね。

実際料理を盛ると器も料理も引き立ちます。これは凄いです。料理を盛るために陶芸をする。発想の転換と言うか、手順が逆さまというか、動機は関係なく、料理と器のコラボは最高級のセンスがあったようです。

魯山人の芸術家としての評価は高いですか、残念ながら人間人物の評価はあまりよくありません。すばらしい人物からすばらしい作品が生まれるとは限らないです。

魯山人はよく「座辺師友」と言う言葉を使われています。意味は、身の回りのものすべてが、学ぶ教材であるということです。
焼物で言うなら直接古陶磁が師です。周りに多く置いていたようです。
本物を多く見る。直接触れる事を意味するんでしょうね。

でも、この言葉は陶芸家や芸術家でない一個人として学ぶことが多いです。
私も折に触れて、納得する言葉です。それも大好きな言葉のひとつです。

座辺とは魯山人いう手近にというだけでなく、日常生活と置き換えられます。
日々の生活の中で師や友はいます。それを師や友と感じる感性があるか否かだけですね。
自分自身それを感じられる自分自身の器を持てるように精進したいです。

花を見てきれいと感じ、月を見て美しいと感じる感性は、常に持ち合わせていたいです。
それも、バラや桜の分かりやすいものでなく、野に咲く名も知らない花もきれいに咲いています。それを見てきれいだと感じたいですね。精神のゆとりも必要です。

他人の評価を気にせず、自分の尺度で「美」を見つけたいです。
そう意味では魯山人はすごい方だったのでしょう。

「座辺師友」という言葉に出会えたことにありがたいです。やはり感謝の念でいっぱいですね。

最後までお付き合い下さいましてありがとさんです。