''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

内蔵助の母方親族 蜂須賀 玄寅(池田 由英) 由之の次男 

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赤穂藩 筆頭家老 大石内蔵助良雄 血縁関係 の「け」

 

赤穂藩 筆頭家老 大石内蔵助良雄 血縁関係

家禄1500石

 

母 池田由成の六女 熊 

表記 くま 熊子

 

天城池田家2代当主

備前岡山藩 池田家家老 3万2,000石

池田 由成(いけだ よしなり)

慶長10年(1605年)~延宝4年(1676年)1月8日に死去。享年72。

 

最初 父・池田 由之(いけだ よしゆき)より米子城3万2,000石と「出羽」の名を相続して、 池田光政の家老として仕える。

寛永9年(1632年)には藩主・光政が因幡鳥取藩から備前岡山藩へと移封されたので、由成も備前国下津井城主に転じる。

後、一国一城令でこの城が破却されたので、天城に陣屋を設ける。

ウィキペディアWikipedia)』参照

 

 

由之の次男

由英 

蜂須賀 玄寅(はちすか はるとら、1607年8月3日慶長12年6月11日) - 1674年11月7日延宝2年10月10日))徳島藩蜂須賀氏の家老。1万石。

 

外祖父・蜂須賀家政に招かれて、藩主蜂須賀忠英を補佐し家老となる。

池田内膳由英と名乗っていたが、後に蜂須賀氏を名乗ることを許されて、蜂須賀山城玄寅と名乗る。

藩主・忠英の四男・興龍を養子とする。

 

承応3年(1654年)近江大津上大門町の西坊家屋敷で実子正長誕生。

万治元年(1658年)、興龍に家督を譲り、京に隠棲して斉藤不白と号す。

 

玄寅の没後、興龍の嫡男である龍之が、蜂須賀宗家を継いで徳島藩主になったことに伴い、興龍も池田家と離縁して蜂須賀家に戻ったため、玄寅の家督は正長の子孫が継ぐことになった。

 

 

 

父は備前国岡山藩池田家家老池田由之元助の子・輝政の甥)

母は徳島藩主・蜂須賀家政の長女・即心院

 

同母兄は岡山藩家老の池田由成

異母弟に岡山藩番頭池田忠義鳥取藩家老の池田之政

 

養子の興龍(蜂須賀隆矩

実子の三尾正長(池田正長)

姪(兄・由成の娘)に熊子大石良昭室)。