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鳥居 元忠(とりい もとただ)
元忠も徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、天文20年(1551年)から近侍した。柴裕之は元忠が13歳(天文20年)から家康に仕えていたとする『寛政重修諸家譜』の記事が正確であることを前提として、弘治元年(1555年)に家康が14歳で元服して今川義元から偏諱を与えられて「松平元信」を名乗った際に3歳年上の元忠も同時に元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと推測している。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。長兄の忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次兄の本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)に父が死去すると、家督を相続した。
永禄元年(1558年)の寺部城攻め、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加。
諏訪原城合戦では、斥候として敵陣に潜入し、敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残したものの、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいては、石川数正とともに馬防柵の設置を担当する。
天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、家康の背後を襲おうとした北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を、甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵で撃退し北条勢約300を討ち取り、戦後家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となる。
天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、岩槻城攻めに参加した。
戦後、家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。
6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。
家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。13日間の籠城攻防戦の末、8月1日、鈴木重朝と一騎討ちの末に自刃した。享年62。
元忠の首級は、京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が知恩院の内である長源院に葬ったといわれている。
その忠節は「三河武士の鑑」と称された。
この時の伏見城の血染め畳は、元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。
床板は「血天井」として京都市の養源院 をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。
また、元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、江戸時代にそれぞれ不行跡として改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして、減封による移封でいずれも断絶を免れた。
父:鳥居忠吉
兄弟
妻
子
康忠、
忠政(山形藩24万石の大名) 内蔵助の父方親族 鳥居 元忠 高祖父 次男 鳥居 忠政
忠勝(内蔵助の曾祖父) 内蔵助の父方親族 鳥居 忠勝 曾祖父
娘(戸沢政盛室)