''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

インターネットの速度が気になります より。 

 昨日の日経平均も、24,000円の大台を超えましたよね。 

米中の貿易交渉も、イギリスの選挙結果も踏まえて、EU離脱が見えて来ました。 

二つの良いニュースが、一日の上げ幅としては記録の610円を超えています。 

 

ただ、悲しいのは、この運に乗れなかった悲しい凡夫のサガです。 

とても、悲しいです。 

私たち世代なら、マンモスかなピーと言えますよ。 

 

悲しいと言えば、最近流行りの高速インターネット回線のNURO[ニューロ]です。 

NUROとは、ソニーネットワークコミュニケーションズが提供する世界最速の光ファイバーサービスです。 

最近テレビのCMでよくあるらしいです。 

 

ユーチューブでも、何やらこうした関連動画をよく見かけます。 

我が家には、光を入れていません。 

固定の回線を設置していません。 

 

モバイルルーターで、ネットに繋いでいます。 

設置工事も撤収工事も不要です。 

その点、伏見の古い家の時から使っています。 

不便はないですと言いたいですが、最近何だか遅く感じます。 

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速度を計ってみると、65Mbpsです。 

今日くらいは、47にしたかったですよね。

数字からすると、そんな感じもしませんが、よく感じます。 

そろそろ7もサポート終了ですからね。 

 

まぁ、ネット検索がサクサク出来て、ユーチューブの動画が見られると、それでいい程度です。 

それに、ブログの記事が書ければ、それでいいかもです。 

 

とは言え、速度が遅くなるのか、気になります。 

電場の干渉があるのか、電場の届きが悪いのか、何か原因があるように感じています。 

 

物事遂行に、邪魔は入るモノです。 

いよいよ、極月半ばの14日になりました。 

そう赤穂浪士の吉良家討ち入りの日です。 

正確には、今夜の12時を超えますので、本懐を遂げたのは、15日の朝方です。 

 

ドラマや映画、講談や浪曲でも、有名な『南部坂雪の別れです。 

話の方は、時は元禄十五年(1702年)12月13日、吉良邸討ち入りを明日未明に控えた日。

大石内蔵助は、雪の中、赤坂は南部坂上にある三次浅野土佐守邸(現・赤坂氷川神社境内)を訪れます 

 

ただ、この話の前提に嘘があります。 

実はこの刃傷の時まで正室阿久里が生活していたのが、南部坂の赤穂浅野家下屋敷でした。 

 

赤穂の屋敷は、幕府が接収していますので、あの有名なシーンに、南部坂ではないんです。

確か今井町に三次浅野の下屋敷があったように記憶しています。 

でも、今井町雪の別れ」雰囲気が変わります。 

 

ところが、この坂シリーズが、あのAKB48系のグループの乃木坂46欅坂46の根本のタイトルになっているなんです。 

ですから、秋元氏は47と言うのは外しています。 

赤穂浪士が、もともとAKO47ですから、ここからの連想だと言えます。 

 

いろいろと赤穂浪士も、300年以上経った今でも使われる好材料だと言えますね。 

因みに幕末に存在感があった新選組も、赤穂浪士のまねしたあの大丸製の制服になりますね。 

それが、赤穂事件から200年後近くですからね。 

 

しかし、新選組の最後の生き残った一人は、何と昭和13年まで存命でしたと聞きます。 

池田 七三郎(いけだ しちさぶろう)又は、稗田 利八(ひえだ りはち)  

嘉永2年11月13日~昭和13年1月16日) 本性は稗田 利八。 

何でも、一時、見習局長付となり近藤 勇の小姓を務めたと言います。 

長生きでしたが、享年90歳と言うから、幕末から昭和の生き字引ですね 

 

赤穂浪士の討ち入りから、大変脱線しましたが、赤穂浪士の中にも、一人生き残った人物が居ることは、ご存知ですね。 

 

足軽の寺坂吉右衛門です。 

赤穂事件の討ち入りから生き延びて、83歳まで生き伸びます。 

当時の83歳は、大変長生きですからね。 

 

事件後、いろいろな隠密行動をして、数年かかって浅野大学に逢って事件の事を伝えたとも聞きます。 

その後、吉田忠左衛門の娘婿・藤十郎大夫家族と暮します。 

伊藤家を離れた頃の享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男となっています。 

更に曹渓寺の口利きで、一時土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清に仕えて士籍を得た言う事です。 

 

不思議なのは、足軽でこの討ち入りに参加したのは、寺坂一人だけです。 

この辺りも、不思議です。 

大石家にも、家来の足軽が居ますが、こちらは参加していません。 

 

この時期の足軽と言う地位が、いろいろとあやふやですが、基本的に言えば、準侍です。 

要するに、士分、つまり、正式な侍ではありません。 

ただ、寺坂は、浅野家の直足軽だったと言う事です。 

 

それにしても、3両2分2人扶持だった寺坂が、どうしてそこまで忠義を尽くしたのか不明ですが、侍としての誇りがあったのは、確かだと思います。 

因みに、27歳頃に浅野家小役人下村長次郎の娘と結婚していと言います 

この給金では、生活も大変だったと思えば、いろいろと思いを馳せますね。 

 

一度大事件に関わると、麻布山内家仕官して士分得ても何も思わないように思ったと思うでしょう。 

自分からの士官ではなく、お世話になった曹渓寺との関係から已むを得ず士官した感じだと聞いています。 

そりゃ、赤穂浪士の生き残りが居たとなると、興味を持つ殿様が居ても当然です。 

それが、幕末で徳川に近い山内家の親戚だと聞くと感慨深いです。 

 

長い歴史と言う時間も、今やネットで調べると、いろいろと分かることもあります。 

やはり、速度と言う「時」は金なりかもしれません。 

 

ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。 

ありがたいことです。 

 

日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。 

神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。 

ありがたいと感謝です。 

 

赤穂浪士 四十七士 (AKO47) の「し」

寺坂吉右衛門信行(てらさか きちえもん のぶゆき) 

 

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