先日、娘の5歳児ゆうゆうが、おもちゃのパソコンを作って欲しいと言われて、手作りした記事を書きました。
私の使っていないパソコンもあるので、それを使わせようとしましたが、おもちゃのパソコンが欲しいと言うのです。
何度も、私の使っているキーボードを貸しています。
その度に、自分の世界で遊んでいます。
私のコレクションになっている古いパソコンを使って遊んでいます。
大きさがいいんでしょう。
実際に、ネットにも繋ぐことが出来ないので、キーボードに馴染んでくれれば、それでいいだけです。
その他にも、ブルートゥースのキーボードもありますので、おもちゃにしては、本物過ぎて少し気を使っているようです。
おもちゃと言っても、本物ですから、壊すと私に怒られます。
そんなこんなで、私が手作りしたおもちゃのパソコンも、よく遊んでくれます。
もっと本格的なモノを作ればいいと思われますが、条件がありました。
藤井製麺の試供品の段ボールの箱を使って、おもちゃのパソコンを作ってほしいのだと言うが、最大の困難です。
木製にするなら、コーナンにでも行って、パーツを揃えて組み立てれば、それなりに形にはなります。
段ボールの箱と言うのがネックです。
水性塗料を塗ると、紙ですから、形が変わります。
いろいろと試行錯誤の苦心の結果が見えます。
それでも、娘は機嫌よく遊んでくれます。
本物のパソコンを使って、アニメのDVDもよく見ますが、触ってはいけないとの思いがあって、電源入れたり、シフトキーを触ったりするのが、限界です。
それに比べると、おもちゃのパソコンは、自分にとって都合がいいみたいです。
人差し指を、「は」と「ま」のチョボに当てて、ブラインドタッチの様相です。
横にあるマウスは、本物です。
マウス操作もしたいというので、貸しました。
「マウス貸して」と言います。
マウスが何に使うモノかも、マウスがネズミさんに由来している事も知っています。
うさぎも好きですが、ネズミも好きです。
やはり、ガンバの大冒険の動画の影響でしょうかね。
それとも、リンダリンダの歌詞の中のドブネズミが好きなのかもしれません。
ドブネズミに、美しさを見出しているのかもしれません。
破調の美を求めてるとは思いません。
「破調の美」と言えば、戦国時代の古田織部でしょうね。
利休亡き後、徳川の茶の湯の指南役として、一時代を作った変わり者(へうけもの)かもしれません。
織部の求めていた美こそ、未完の美でもあるでしょう。
機械が描いた真円でなく、人の手で描いた意図した円の中に、何か完成されていない美を見つけたのかもしれません。
完成した茶碗を意図して歪めた沓形(くつがた)の茶碗などは、その代表格かもしれません。
緑の織部釉、黒織部茶碗と言い、釉薬も工夫がすごいが、その抽象画のような幾何学的な文様と言い、今までになかった茶碗や焼き物の破調の美が、多くの陶工が安土桃山期~江戸初期の短い時間の幻の作品に、思いを馳せて作陶されています。
織部の研究と言えば、かの美食家としても有名だった魯山人を外すことは出来ません。
人間国宝の打診を蹴ってまでも、成し遂げたかった狙いは何なのか、私のような凡人には理解できませんね。
でも、魯山人の作品の中には、織部の時代に戻ったかのような回帰的な作品も垣間見られます。
原点に戻ったと言う意味では、大きな功績だったと思いますし、その作った伊賀や織部の緑釉の器で、料理を盛り付けて見るというのも、芸術の範疇を超えている新しい美の創造者だったと、いい意味ですごい芸術家だったと思います。
織部の茶碗の絵と言えば、子供が落書きしたような面白い図柄です。
我が家の娘の絵も、個性的です。
子供の絵は、目で見るものでなく、耳で聞くものだと、保育園の先生に教えて頂きました。
何とも含蓄のある言葉です。
娘の絵には、人物を描いても、静物を描いても、抽象画の雰囲気が強いです。
それも味です。
何が聞こえるのか、耳をすましてみます。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。