世の中には、不思議な事が多いです。
先日も、子供と少し離れた児童公園に行きました。
すると、桜が満開です。
って言うか、これって桜だよね。
そう自問自答する私が居ます。
もう少し離れた所にも、同様にして季節外れの桜が咲くことがあります。
ただ、こちらの桜は、いつもの寒い大寒の時期に咲いているのを、毎年見ます。
そして、驚くんですよ。
やはり、どう見ても狂った果実じゃないけれど、狂った桜でしょう。
春が恋しくて待てなかったのか、それとも我が道を進む桜だったのかも知れません。
これが梅なら、禅語の「渓梅一朶香」(けいばいいちだかんばし)と嘯いたら、これまた仏の知恵に近づけるかもしれません。
山の中の誰も来ない場所で、梅は綺麗に咲いて、梅の香りを醸し出しています。
誰から褒めてもらうためでなく、春になったから、梅の花が咲いただけです。
誰に教えてもらうことなく、自然の摂理として、梅は花を咲かせています。
時に、こうした禅語が人生訓になり得ます。
名利を求めず、自分の道を歩むだけです。
禅の修行なら、山に籠って、座禅三昧、公案三昧です。
時に、人は暮して行かないとイケません。
食っていかないとイケません。
現金も必要ですし、病気になれば、医師に診察してもらわないとイケないです。
こうした崇高な生き方と、現世の苦悩を天秤に掛けたなら、やはり、人の道として普通に暮らすしかありません。
それも大事です。
禅の修行も、特別な修業があるわけでなく、家の前の道を長安に向かって歩むだけです。
お布施の金銭の多寡によって、悟りの古今伝授もありません。
自分の足で歩むだけです。
それ以外に手段はないはずです。
日々の暮らしの中、やるべきことをやることが、自然の摂理に叶っています。
出家であっても、在家であっても、同様です。
季節外れの満開の桜から、考えさせられる事はあります。
花を見て、月を見て、心に打すこともあります。
目線を下げて、日々の暮らしの中、「よかった探し」をするのが、我が道です。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。