8歳児ゆうゆうが、1年生時に学校で鉢植えしていた朝顔から種を採って、この夏前に家で植えました。
それが綺麗に咲いています。
何度かご紹介させて貰っています。
鉢は都合2鉢用意しています。
その玄関門扉の所の朝顔が綺麗に咲いています。
朝顔の色がいいんです。
とある先生が、買って来た朝顔の種の花は綺麗に咲くのに、自分の鉢植えの朝顔から採った種から育てた朝顔の花の色が良くないと言われていました。
やはり、土とかの相性も、日照時間の加減など、いろいろと関係するのかもしれません。
とりあえず、我が家の朝顔は、色が綺麗に思えます。
青紫の色合いがいいです。
ツルが伸び放題になって、苦慮しています。
支えを置いていたのですが、それも無視して、伸び放題です。
それも、自然の摂理だと思うと、自由にされてやりたいです。
禅語に「百花為誰開(ひゃっかたがためにひらく)」と言うのがあります。
誰の為に花が開くのか? って、まさに人間を喜ばすためには咲いていませんよね。
もともとは、「碧巌録(へきがんろく)」の第五則の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)の頌の結句「百花、春到って誰が為にか開く」に由ったモノと思われると、我が愛読書の『禅語の茶掛 一行物』(芳賀幸四郎著)の中で、解説されています。
花が自然の摂理中で、自由に花を咲かせているのでしょう。
そこに、綺麗に咲いたでしょうと、ドヤ顔することもありません。
たまたま、人が見て、この花は綺麗だとかそうでないとか言うだけですね。
私も、この花のように、人様からの意見に左右されることなく、自分の本分に委ねて、生きていたいものです。
なかなか、人の社会の中では、それが難しい事は知っていますが、気持ちをそうでありたいです。
同時に、達磨さんの「無功徳」の考え方も、しっかりと持って行きたいですね。
見返りは、求めない。
してやっていると言う気持ちを持てば、善行であっても、無功徳になってしまいます。
仕事であっても、「させて貰っている」のか、「してやっているのか」のか、「嫌々やらされている」のか、同じ行いでも、気持ちの持ちようで、結果もいろいろと変わって来ますからね。
イライラしないようにして、暮らしてい行きたいが、やはり、社会で生きていると、理不尽でイライラすることもありますからね。
呪文のように、イライラしないように、「観音様」の名を唱えて、心の三毒を廃したいものです。
信じるモノこそ、救われます。
ありがたいことです。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。
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