''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

宝船も間近ですね。

イメージ 1

引出しの中なら、今日はコードアートです。宝船を表現です。
身の回りのもので表現です。笑ってください。

歳の瀬も押し迫って来ています。まだ、クリスマスのイベントが残っていますが、駆け足で今年も終わりです。もうすぐお正月ですね。1年の速さをこの歳になって深く感じます。
でも、まだ今月のテーマにがんばります。

江戸時代も、年末は掃除の月でもあります。1年の最後にいろんなメンテナンスを行います。竈の中も煤だらけですからね。火の用心のためにもこうしたところもメンテナンスしますよ。店の奥の高いところもすすだらけです。家の中で煮炊きの火を利用しているとそうなります。

新年前の店の者総出で煤払いを行います。今のように柄の長い棒はないので、竹を利用しました。もちろん、江戸の街中に竹林はありませんので、竹を売りに来る者がこの時期大勢です。

その中に赤穂浪士の一人、大高源五(おおたかげんご)もおりました。もちろん、敵情視察の徘徊です。
俳句に長け、号を「子葉(しよう)」と称し、俳書『二つの竹』を出版しているほどです。文人です。いや武芸にも秀でた文武両道の武士(もののふ)です。
号とは俳句での名前、ペンネームのことです。
ブログで言うブログネームです。

この大高源五は、俳句でも茶道でも優れており、多くの文人との交わりもありました。これが討入りの成功にも繋がります。俳句の方では芭蕉の高弟、宝井其角(たからいきかく)とも親交がありました。
過去にも宝井其角の記事を書いています。
[http://blogs.yahoo.co.jp/kantoshoue/6852934.html] ←英一蝶と初鰹

それが十二月の半ば、両国橋の橋のたもとで出会います。
頬かむりの竹売り姿です。源五も顔を会わせます。
「子葉(しよう)殿では、ござらぬか?」
其角が声をかけます。
すこし哀れんだ視線です。
芝居では、いろいろなこの場面です。
雪が降って寒そうな情景もあります。竹売りに身を落としての姿です。
あれほどの文人ですからね。当然かもしれません。

源五に恥ずかしげな態度はありません。
すぐに主君の仇を討つ武士の本懐が待っています。
其角はそんなことは全く知りません。極秘ですからね。
其角はそんな哀れな姿に胸を打ち、一言、一句発します。

「年の瀬や 水の流れと 人の身は」

源五も下の句を返します。

「あしたまたるる その宝船」

さすがですね。その文才に心打ちます。
即興ではなかなか言えません。私なら指折って考えます。

その「宝船」の言葉に、どこぞの大名家に仕官(再就職)できたのかも知れないと納得して別れます。

しかし、この方とはご縁があります。
討入り当日、吉良家のお隣の松平家(越前武生藩)で年忘れの俳句の会が行われていました。そのときにこの席に其角も居りました。

口上にやって来たのは、大高源五です。
口上とは、吉良家の周りの方にご迷惑をかけるので挨拶です。
それも旧浅野の家臣として主人の仇討ちである旨を申し述べます。
武士としての誇りと情けに訴えます。

通常なら、隣に強盗や敵襲なら、隣家としては助成に行きます。
武士としての当然の行動です。
そうしなければ幕府よりきつい処分が下ります。
ですから、先に仇討ちであると隣家に知らせることによって、討入り阻止も防げます。

太平の世にあって本当の武士が居なくなった時代です。こんな武士道はこころ好くものでしょうね。

この折、壁越しに其角と言葉を交わします。
本懐(仇討ちの成功)を祈った言葉です。
そのときにも、其角は発句します。

「我が雪と 思えば軽し 笠の上」

これに対して、源五こと子葉は、返句を返します。

「日の恩や たちまち砕く 厚氷」

これに同じく其角と親交のあった「春帆(しゅんぱん)」の号を持つ、富森助右衛門が一句付け加えます。

「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰(あられ)かな」

ちょっと微妙(びみょ~う)です。
作品として優れているかもしれませんが、私的にはチャチャ入れたような気がします。
(勝俣はいません。ヨッシャー)
二人の話に割り込んだ感があります。皆さんはどう思われます?
この話は、俳人の手紙のやり取りから出たそうですから、多少脚色されていることも考えられます。
でも、俳人歌人はすごいです。すぐに言葉から、五七五が飛び出します。

そんなこんなで、成功の勝声に隣家のみなさんもホッとしたことでしょう。
映画やドラマなんかでは、隣家が壁際に提灯を照らし、手助けしたような場面が多いですね。人の道、武士(もののふ)の情に心打たれます。
成功した暁にも隣家に迷惑かけて詫びの挨拶が入ります。

しかし、「成功よかったね」の声もメールもありません。幕臣としては当然です。
後に幕府からの調査にも、「深夜の事ゆえ全く気づきません」でしたとの返答です。
こうしたことも仇討ち成功があります。

当時の吉良の子供が、上杉家の当主です。奥さんも上杉の娘です。吉良の嫡男も上杉の養子(孫)です。上杉家とは一体との深い親戚関係です。上杉に知らせが入れば、兵が繰り出されます。大変な騒ぎになっていたでしょうね。でも燐家からは、誰も知らせにはいかなかったようです。

こうしてこの赤穂浪士の仇討ちの話にも、七福神の乗る宝船がやってきました。

でも、この話の裏には、仇討ちの成功と共に吉良上野の命と家臣の怪我人、死人の出たことは軽んじてはいけません。
良いとか悪いとかではなく、物事に筋を通した赤穂浪士に胸打たれるだけです。

先人残した資料を読んでいく上で、人の情にも学ぶことが多いです。
すこしでも学んで人としての向上に努めたいです。
こうした記事を掛けたプログの機会を得られましたことに感謝します。
ありがとさんです。

今日は自分の世界での話しにつまらないと思われた方もおいでですが、最後までお付き合い下さいましたことを心よりお礼申し上げます。