''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

鬼から見る節分と豆まき

明日は節分です。
いろいろな行事が各地で行われます。

鬼とはなんてしょうね。
もちろん、架空の存在です。

鬼とは鬼門です。丑寅(うしとら)の方位です。
京の都からですと比叡山がその方位にあります。
鬼門を封じています。
魔物が入ってこない策です。
一文字で「艮」とも書きます。「良」の一点欠いたものです。

鬼門の方位は、牛と虎です。
ですから、牛の角(つの)と虎の腰巻(服装)をしています。
擬人化して、判りやすくしたものです。
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これを封じるために、魔(ま)モノの目(め)つぶしに「豆」をぶつけます。
これで魔物つまり鬼は、家に入って来れません。
地方によっては鰯(いわし)の頭と柊(ひいらぎ)の葉っぱを魔よけにつるします。
臭い物と柊(ひいらぎ)の葉っぱの棘(とげ)でこちらも撃退です。

また、豆は炒るときぱちぱちと大きな音を発します。
この音も撃退の武器です。
中国の春節祭(旧正月)のとき爆竹を鳴らして魔よけにします。
そうした大陸文化とも関わりがあるように思えます。

賽の河原で鬼が子供をいじめます。
「一つ積んでは父のため、一つ積んでは母のため」とせっせと石を積み上げます。
これをいじめる悪者の象徴です。
これに颯爽(さっそう)とお地蔵様が、スーパーマンのように助けに来ます。
こうした仏教的な要素も含んでいます。
ですからお寺の行事としての節分もあります。

鬼と聞いてピンと来るのは「鬼子母神」です。「きしもじん」と読むとの解説されているものもあります。仏教徒的に言うなら「鬼子母尊神」ですね。
仏に帰依して、母や子らを守る神様です。鬼子母神は、人を食らう鬼です。子供をさらっては食べます。

鬼子母神には500人とも1000人とも言われる子供がいます。すべて実子ですね。養子ではないです。
サンスクリット語の「ハーリティー」の漢訳で、音写した「訶梨帝母(かりていも)」とも呼ばれます。インドの神様からの起源のようです。

お釈迦様が一番下の子供「プリヤンカラ」を隠します。
仏典では、青目子(しょうもくし)と表記されていますので、青い目をした男の子でしょうね。

鬼子母神は、必死になって探します。
お釈迦様の下にもやって来ます。そして知らないかと尋ねます。
「お前には子供がたくさんいるので、一人ぐらいいいではないか?」
との問いに、鬼子母神は否定します。

当然です。鬼であろうと母は母です。子供の数は問題ありません。
腹を痛めて生んだ子供です。大切に決まっていす。

人は、数人ほどしか子供を持てません。
その一人を失った痛みはどれほどかと諭されます。同じ母としての気持ちに問いかけます。
一番下の「プリヤンカラ」はお釈迦様の後ろに隠れています。

それ以上にショックだったのは、一番下の子供の落ち込みです。
自分の母が、人食の鬼とか知らなかったのです。
これらの過程を経て、仏に帰依します。
母と子供を守護する神になったのです。
ですから「鬼」と言う字の角(つの)の点(一画目)がない字で表現されているものもあります。

江戸には、入谷の鬼子母神があることは私でも知っています。
あの「おそれいりやの鬼子母神」の鬼子母神ですね。
「その手は桑名の焼きハマグリ」と同じほど有名です。

江戸の人は、頭の切れもいいですが、ダジャレ好きですね。
それでも、何百年経っても私も使うのですから、すごいことです。

その入谷の鬼子母神では、「福は内、鬼も内」と声をかけて豆まきするとも聞きます。
真偽の程はわかりません。テレビで見たことがあるように記憶しています。
昔は、鬼であったかも知れないけれど今は神様です。

仏の世界観には、敵もまた味方に引き入れる「器の大きさ」があることも確かです。
そうは頭で判っていても、私には人の好き嫌いがあるのは事実です。
仏の世界と現実の世界のギャップはなかなか埋めることは出来ません。

でも、そう思って豆まきをするのは楽しいです。
小さい子供さんおいでの家庭では、楽しみな大切な行事です。
どうぞ、ささやかな楽しみと近所の気恥ずかしさに負けずに豆まきして下さいね。
こんな豆まきに感謝です。

最後までお付き合い下さいまして、心の魔物を追い出してください。
ありがとさんです。