新京極通りを上がる(北に)と錦通り、蛸薬師通り、そして六角通りと続きます。
蛸薬師通りと六角通りの中ほどに「誠心院」という寺がぽっりとあります。
敷地は大きいながら、入り口は、土産物屋さんの同じ、いやそれ以下の間口です。
大きな寺院とは気づきません。
蛸薬師通りと六角通りの中ほどに「誠心院」という寺がぽっりとあります。
敷地は大きいながら、入り口は、土産物屋さんの同じ、いやそれ以下の間口です。
大きな寺院とは気づきません。
繁華街の中に、一歩路地に入るように境内に入ると、町並みの雑踏が嘘のようです。
静かな時間がそこにはあります。
寺院の本堂のほか、多くの墓地がひっそりと佇んでいます。
この寺院は和泉式部の寺院です。お墓もあります。
静かな時間がそこにはあります。
寺院の本堂のほか、多くの墓地がひっそりと佇んでいます。
この寺院は和泉式部の寺院です。お墓もあります。
誠心院は、何度かの変遷の後、この地に今あります。
説明書からも読み取れます。
説明書からも読み取れます。
和泉式部は、百人一首にも名を連なる平安時代の女流歌人です。
ときは平安時代の一番華やかな時代です。同じ時代には、紫式部、清少納言の有名な女優歌人を輩出されています。天才は、同じ時代に多く一度に生を受けます。
藤原道長も同じ時代で藤原氏の栄華を極めた時代です。
王朝文化の極みとも言えます。
ときは平安時代の一番華やかな時代です。同じ時代には、紫式部、清少納言の有名な女優歌人を輩出されています。天才は、同じ時代に多く一度に生を受けます。
藤原道長も同じ時代で藤原氏の栄華を極めた時代です。
王朝文化の極みとも言えます。
訳 (もうすぐ病のために)死ぬでしょうが、あの世に行く思い出に、もう一度あなたにお会いしたい。
恋に生きた女性でも有りました。黄泉への旅立ちに際しても思うは恋の相手です。
ちょっと切ない感じですね。
顔だけ見るとさすがに怖い感じもしますが、才女の遍歴はありますね。
ちょっと切ない感じですね。
顔だけ見るとさすがに怖い感じもしますが、才女の遍歴はありますね。
その後、道貞と離別し、冷泉天皇の皇子(兄)為尊親王、兄の死別後(弟)敦道親王と逢瀬を重ね、そのときの恋愛体験を物語ったのが『和泉式部日記』などです。
(弟)敦道親王が亡くなった後、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子に仕えました。
その中で藤原道長の家司である藤原保昌と再婚し、一時丹波に下向していました。
(弟)敦道親王が亡くなった後、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子に仕えました。
その中で藤原道長の家司である藤原保昌と再婚し、一時丹波に下向していました。
後に藤原保昌とも離別します。
恋に生き、恋に生涯を捧げたような女性ですね。
死に際にあっても恋ですね。
この「あなた」とは、どなたのことだったんのでしょうね。
左京黒谷の真如堂近くに東北院と云う小さなお寺があります。
その境内に、同じく「軒端の梅」(のきばのうめ)と伝わる白梅が咲きます。
面白いことにこの「軒端の梅」ですが、嵯峨の清凉寺にも和泉式部ゆかりの軒端の梅と伝わる梅が本堂脇にあります。
死に際にあっても恋ですね。
この「あなた」とは、どなたのことだったんのでしょうね。
左京黒谷の真如堂近くに東北院と云う小さなお寺があります。
その境内に、同じく「軒端の梅」(のきばのうめ)と伝わる白梅が咲きます。
面白いことにこの「軒端の梅」ですが、嵯峨の清凉寺にも和泉式部ゆかりの軒端の梅と伝わる梅が本堂脇にあります。
この境内にも「軒端の梅」があります。
恋の数だけ「軒端の梅」があったのかもしれません。
こちらには古い古い歌碑が立っています。
恋の数だけ「軒端の梅」があったのかもしれません。
こちらには古い古い歌碑が立っています。
「霞立つ 春来にけりと 此花を 見るにぞ 鳥の声も 待たるる」
・・・・・・・・と記されています。
ささやかな「和歌」の世界に、こころは解き放たれた気がします。
今ここで私は、いろんなご縁に繋がっています。
小さい「幸せ」がありましたよ。ありがたいと感謝の念でいっぱいです。
今ここで私は、いろんなご縁に繋がっています。
小さい「幸せ」がありましたよ。ありがたいと感謝の念でいっぱいです。
最後までお付き合い下さいまして、こころよりお礼申し上げます。