''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

和泉式部の愛した「軒端の梅」

新京極通りを上がる(北に)と錦通り、蛸薬師通り、そして六角通りと続きます。
蛸薬師通りと六角通りの中ほどに「誠心院」という寺がぽっりとあります。
敷地は大きいながら、入り口は、土産物屋さんの同じ、いやそれ以下の間口です。
大きな寺院とは気づきません。

 

繁華街の中に、一歩路地に入るように境内に入ると、町並みの雑踏が嘘のようです。
静かな時間がそこにはあります。
寺院の本堂のほか、多くの墓地がひっそりと佇んでいます。
この寺院は和泉式部の寺院です。お墓もあります。

 

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誠心院は、何度かの変遷の後、この地に今あります。
説明書からも読み取れます。

 

和泉式部は、百人一首にも名を連なる平安時代の女流歌人です。
ときは平安時代の一番華やかな時代です。同じ時代には、紫式部清少納言の有名な女優歌人を輩出されています。天才は、同じ時代に多く一度に生を受けます。
藤原道長も同じ時代で藤原氏の栄華を極めた時代です。
王朝文化の極みとも言えます。

 

「あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの あふこともがな」
                      百人一首56番(後拾遺集・13・恋3)

 

訳 (もうすぐ病のために)死ぬでしょうが、あの世に行く思い出に、もう一度あなたにお会いしたい。

 

恋に生きた女性でも有りました。黄泉への旅立ちに際しても思うは恋の相手です。
ちょっと切ない感じですね。
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顔だけ見るとさすがに怖い感じもしますが、才女の遍歴はありますね。

 

和泉式部は、大江雅致の娘、 和泉守橘道貞と結婚し、夫の官名により和泉式部と呼ばれていました。この間に出来た娘が小式部です。(百人一首にも歌あります。確かに分かりやすい名前です)

 

その後、道貞と離別し、冷泉天皇の皇子(兄)為尊親王、兄の死別後(弟)敦道親王と逢瀬を重ね、そのときの恋愛体験を物語ったのが和泉式部日記』などです。
(弟)敦道親王が亡くなった後、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子に仕えました。
その中で藤原道長の家司である藤原保昌と再婚し、一時丹波に下向していました。

 

このときに娘の小式部が歌合せでとっさに読んだのが百人一首
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」(百人一首 60番)
この話は別の機会に紹介します。なかなか面白いです。

 

後に藤原保昌とも離別します。

 

恋に生き、恋に生涯を捧げたような女性ですね。
死に際にあっても恋ですね。
この「あなた」とは、どなたのことだったんのでしょうね。
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左京黒谷の真如堂近くに東北院と云う小さなお寺があります。
その境内に、同じく「軒端の梅」(のきばのうめ)と伝わる白梅が咲きます。
面白いことにこの「軒端の梅」ですが、嵯峨の清凉寺にも和泉式部ゆかりの軒端の梅と伝わる梅が本堂脇にあります。

 

この境内にも「軒端の梅」があります。
恋の数だけ「軒端の梅」があったのかもしれません。
こちらには古い古い歌碑が立っています。
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「霞立つ 春来にけりと 此花を 見るにぞ 鳥の声も 待たるる」

 

 ・・・・・・・・と記されています。

 

才女は、もてもての人生でしたのでしょう。
こんな和泉式部にもあやかりたい気分ですね。
故人と軒端の梅をしのびます。

 

ささやかな「和歌」の世界に、こころは解き放たれた気がします。
今ここで私は、いろんなご縁に繋がっています。
小さい「幸せ」がありましたよ。ありがたいと感謝の念でいっぱいです。

 

今来た道を振り返ります。
新京極の出発点の四条通りがまだ見えます。
この道々にいろんな場所と人の営みが繰り返されています。
「あぁー」感慨深いです。

 

最後までお付き合い下さいまして、こころよりお礼申し上げます。