''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

舞妓はんのおやつ ヤマザキより

昨日、仕事場で差し入れを頂きました。
近くコンビニがオープンする為の営業配布の商品です。
そのネーミングに、ちょっと笑ってしまいました。

ヤマザキ ランチパック 小倉&抹茶」
サブタイトルに 舞妓はんのおやつ と銘打って 
「宮川町の君波どす~ おいしいおすぇ~ どうぞいっぺん 食べておくれやす」
と挨拶文と写真入りです。

イメージ 1

なんともインパクトのあるパッケージです。
写真、ちょっと怖いかもです。
カロリーは1個145kalです。2個入りなのでトータルで290kcalです。

味の方はそれほどインパクとはないですね。
どっちつかずの抹茶と味のはっきりしない小倉あんです。
甘さも口の中で主張します。

すこし甘みを欲した昼ごはんにはいいかもです。
おやつ程度です。
食べよい大きさと言うところは、まさしく舞妓はんにはいいかもですね。

抹茶と言えば、色鮮やかな緑ですね。
本来のお茶の色からするとあんな色鮮やかな抹茶色ではありません。

その製法を考案したのは、「永谷園」の創業者であるとも聞いた事があります。
早速調べました。
永谷園の起源は、江戸時代の山城国湯谷村(現京都府綴喜郡宇治田原町)で元文3年6月(1738)「青製の煎茶製法」を開発した永谷宗七郎(のちの永谷宗円)にさかのぼるようです。

これを一手に販売しようとしたのが「山本山」の創業者初代嘉兵衛氏です。
山本山」は、初代嘉兵衛氏が、永谷園と同じく山城国(現在の京都南部)字治山本村から上京し、江戸日本橋に「鍵屋」の名でお茶と和紙を商う店として開業したのが始まりです。
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』参照)

二社ともにお茶そのものでなく、お茶漬けや海苔という本来と主役でなく脇役に達したところに生き残りを見つけたようにも思えます。
創業者の味にこだわりは、今もその会社に伝わっています。

利休居士が宗易の頃には、お茶を粉にすべき茶臼も茶道具の一つでした。
茶臼は、普通の臼よりより細かい粉末にする事が出来ました。
しかし、堺にあった頃にはこうした道具もお茶の広まりともに茶臼が姿を消して行きます。

茶臼は武器になりえたのです。
どんな?
炭をすり、火薬を作る危険な道具に変わる事が原因です。

鉄砲の出現が戦乱の世を一変しました。
その鉄砲も火薬がなければ、ただの棒です。
ただ炭はどこにでも手に入ります。

当時の火薬は黒色火薬であるが、原料の硝石は日本国内では採れなかった為、南蛮貿易で硝石を輸入し、火薬を製造していました。
そこで南蛮貿易の拠点の堺がポイントになっていたわけです。

しかし、凄い人もいた者です。
この硝石を作る事を考えた人があちこちに居たのですね。
それも何から作るというと人や馬の排泄物からです。
口伝では、尿の成分と蓬とかの材料で出来上がるものもあるのようです。

各地にこのように硝石を作る秘術が開発されます。
毛利も薩摩も徳川もこのような技術を持っていたと考えられます。
もちろん軍事秘密です。

これには茶臼のような細かくする道具が必要であった。
そのため、茶臼は茶道具の中から消える運命になります。
一定の者が抹茶にする術を持つ事になります。

私は、タイトル通り、痛風患者です。
日に2リットルの水分を摂取するように心がけています。
なかなか努力しないと摂取できないのが現実です。

尿の排出ともに体内の尿酸値を下げることが出来ます。
血液中の尿酸値が高いと結晶化して、あの痛い痛い発作がおきます。
その排泄物から武器を作るとは日本人の技術の凄さに驚くばかりです。
食べ物ネタには、すこし不適当な内容になってしまいました。

戦国の知恵、江戸の技が、現代人の抹茶スィーツにつながります。
舞妓はんもまた江戸の華です。
小倉の餡も日本の伝統です。

それらをパンとクリームがこれらと一袋の中にコラボがします。
現代にもつながっているのはありがたいです。感謝ですね。

そう思ってランチパックを頂く変わり者がここに居ます。
味も、すこし微妙です。
京都限定なのでしょうかね。
他府県でも販売されているのでしょう?
知りたい気分です。

最後までお付き合い下さいましてありがとさんです。