''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

藤森神社の神符より、見える世界。

藤森神社の火焚祭の神符を頂戴しました。
私の住まいします伏見の地に、藤森神社は鎮座しています。

「五穀の豊穣を感謝しいろいろの災いの多いこの時代に火焚木に托して罪穢を清め災いから逃れる祭り」と記されています。
ささやかながら、平穏無事を祈りました。
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神様はおいでになります。
仏法世界においても、神さまの存在は、齟齬するものではありません。
天神、龍神と神の存在を前提としております。

神様も尊い存在です。
そのお力にすがりつきます。
平穏無事が一番です。

秋季大祭も執行されました。
神饌初穂のお返しも頂きました。
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ワカメでしょうかね。
海の幸です。
神様には、里の幸、山の幸、海の幸をささげて、それぞれの生活の感謝をささげます。

もちろん、お神酒も必要です。
清めの酒です。

酒と神さまとは、ご縁が深いようです。
伏見の地は、水清き地にて、酒造りも盛んです。
神様の下には、多くの酒造メーカーからの樽酒が奉納されています。

菰(こも)を冠った杉の樽酒です。
杉の木香が、お酒に移ります。
好き嫌いはあるにしても、「うまい」ものです。

酒が酒としてうまい。
米が米として美味いのと同じです。

美味い米は、おかずがなくてもうまい。
甘味を感じます。
香りがいいですね。
香り好きの私としては、樽酒はご馳走です。
なかなか呑むことができません。

もちろん、樽酒とし売られているものは、ときどき購入しています。
どうしてもと言うときは、杉の割り箸を燗酒で混ぜるだけでも、雰囲気は味わえます。
菰冠りの酒は、なかなか頂けないものです。

この菰(こも)と言うのが、なかなか風情のある言葉です。
菰冠りの酒がその際たるものです。
しかし、菰はお菰という言葉にも繋がります。

お菰(こも)というと、乞食のことでもあります。
ルンペンなどとも子供の頃、言っていましたね。
乞食やルンペンというより、少し情のある呼び名です。

今時に言えば、ホールレスですね。
昔のホームレスと言えば、橋の下というのが定番です。
しかし、今や形式にこだわらなければ、近代的なホームレスとして生きて行けます。

凄い時代です。
ネットカフェーとか、ネット難民も似たようなモノかもしれません。
住所を持たず、居所さえもたず、住所不定ということになりますからね。

江戸時代の言葉なら、無宿人です。
本来は、無頼の者でなく、戸籍を外れた者です。逃散した者です。
お尋ね者となります。

土地を捨て、江戸にやってきます。
土地を捨て、郷里を捨てて、都にやって来ます。
無宿人の更生する施設が、江戸時代にありました。

石川島の「人足寄場」です。
手に職を付けさせて、社会に戻す。
そうすれば、普通の生活が出来、犯罪も減少するからです。

松平定信の「寛政の改革」の時に、池波正太郎の「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵の発案であったと聞きます。
もともとの平蔵の立案したものと違いはあったにせよ、幕府が執った政策です。

長谷川平蔵は、設置するに当って、この寄場の責任者となりました。
しかし、寛政4年(1792)には、正式に寄場奉行が新設され、徒目付であったから村田銕太郎昌敷が、初代寄場奉行として就任します。

長谷川平蔵の推挙であったとも聞きます。
共に名前に「銕」の字がご縁かもしれません。

菰冠りの菰(こも)から脱線でしたね。
しかし、菰、特にお菰というと、どうしても故・桂吉朝の「ふぐ鍋」の落語の噺が思い出されます。

落語でもふぐは、時々登場します。
落語の「らくだ」もふぐに当ったところから始まります。

当ったら死ぬ。たまに(たまに、弾に)当ったら死ぬ。
そういうところから、鉄砲ですね。
てっちりです。てっさです。

店の旦那が怖がって食べるのを、お菰(乞食)に毒味させるのが、あべこべに毒味させられた話です。
「あれ、やがな」
「ふぅぅ 」
絶妙の演者間合でしたね。

それに、あの吉朝さんが演じるお菰(乞食)には、凛とした「人」としての品格がありました。
身なりは、貧しいお菰ですが、人としては自分に誇りを持っているように感じます。
人として、どんな状況にあっても、あのように、ありたいものです。

菰冠りの酒から、いろいろな想像の世界が広がります。
五穀豊穣は、平和の象徴です。
笑いも、平和の象徴です。
神様のおかげです。

今日も穏やかに過ごしたいです。
ありがたいと感謝の気持ちも、そっと横に添えます。
ありがとさんです。

最後まで、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。