''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

お供え物かよって!!

連休を過して仕事場に向かうと、デスクはお供え物かのお土産の山です。
ありがたいですね。
義理堅く、お土産物を頂戴に預かれます。
饅頭あり、クッキーありと、両党使いの私にはうれしい出来ことです。
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これだけあれば、「まんじゅうこわい」と最後に「渋いお茶がこわい」と言いそうです。
ありがたいです。

本来、お供えは、辻にあるお地蔵さまと決まっています。
もちろん、先祖伝来のお墓にも供え物はあって当然です。

本来こうした供え物は、持ち帰り食べるものでなく、その場に供する。
つまり、置いてゆくものです。
時に、食に植えた浪士が食し、空腹に悩む子供が供するものであったものでしょうね。

家の軒先になった柿の実を狙って、これを食する不心得な者が多くありました。
それが今では、なっている柿の実を採ろうとする子供すらないのが現実です。
飽食の時代です。
柿の実にも見向きもしません。

凄い時代です。
マックのハンバーガーやミスター・ドーナッツなら飛びつくかもしれません。
桃栗三年柿八年です。
時間を考えずに過します。

小学2年生の国語の教科書を思い出します。
お寺のみかんを盗んで食べようとします。
やさしい和尚さんが、そのみかんを採って手紙を添えて置いてくれていました。

「盗んだミカンはすっぱい、すっぱい」
そんな手紙でした。
「みんなで分けてお上がり」と、最後に書かれていたのを、今でもはっきりと思い出します。

35年以上前のことでしょうね。
はっきりとイラストも思い出します。
こうした出来事も今では昔話ですね。
なんとも情に欠けた話です。
情がないのが現実です。

人の情けは、人のためではありません。
回りまわって自分に帰ります。
「情けは人の為ならず」

人にとって良い事ではないという意味ではありません。
自分に帰ってくることなのかも知れないという意味です。
意味の履き違えです。

輪廻の如く、縁は正しく円です。
回ってきます。

感謝の気持ちも、自分に帰って来ます。
ありがたいと思う気持ちは、かならずわが身にかえります。
感謝すれば、感謝されます。

神や仏に感謝すれば、それがいい事となって帰って来ます。
ささやかなことに気づかないだけです。
それが分かるとありがたさが増します。
生きているのでなく、生かされていると自覚しますよ。

今日も穏やかな一日が送れましたことに感謝いたします。
ありがとさんです。

最後まで、いたい破天荒な人間の記事にお付き合い下さいまして、こころよりお礼申し上げます。