''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

かんとうしょうえの詫び状

昨日、ポストを見て愕然です。
先様に先週に届くはずの荷物が帰って来ました。
大変、凹みました。

朝から、早速郵便局に電話して、どうして付かなかったのか、問い合わせました。
私の早合点です。
一文字、住所が間違っていました。
思い込みが原因です。

先様には申し訳ない気持ちです。
本当にすみませんでした。

すぐに今日、郵便のエクスパックで午後投函します。
明日、無事に到着していることを祈ります。
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詫び状を添えました。

今日から、12月、極月です。
去年も、12月はテーマを設けました。

私は、播州の生まれです。
播州人は、12月と聞くと、赤穂浪士ですね。
討ち入りです。
ですから、今月はサブタイトルに赤穂浪士を持ってきます。

詫びと聞くと、神崎与五郎則休(よごうのりやす)の名を思い出します。

徒目付として5両3人扶持であり、譜代の臣下でない最新参であり最も下位の藩士の一人です。
しかし、風流人として知られ、水間沾徳(みずませんとく)に師事し、「江農舎竹平(こうのしゃちくへい)」という俳号を持つ俳人として優れたいました。

講談の「神崎東下り」「吾妻下り堪忍袋」などの話ですね。
神崎の討ち入りのため、東下りの途中の有名な逸話です。
丑五郎というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」と神崎にからんで来た。

「馬が嫌い」と、これを神崎が断った。
馬が嫌いな侍と、腰抜け侍と見て難癖をつける。
調子に乗った丑五郎が「詫び証文を書け」と言いたい放題の様子です。

神崎は、討ち入りの大事の前、事を起してはならないと、言うがままにその詫の証文したためます。
書いた詫状、漢字書いてあるので読めないから、かなで書けと言われ、再度したためる。
かなの詫状の最後に、神崎与五郎の名前に腹を立てます。

「かんざけよかろう」って読んだのですね。
「燗酒よかろう」とは、ふざけた名前と難癖を付けます。
話の中には、更に詫よと、土下座、股くぐりをさせる場合もあります。
上機嫌の丑五郎は笑って立ち去ります。

武士として、人として堪忍の限界です。
しかし、討ち入りの大事を思い、するが堪忍です。

その後、丑五郎は、赤穂浪士の討ち入り後、その中に神崎がいたことを知ります。
丑五郎は己を恥じて頭を丸め、泉岳寺の墓前に向かって詫を入れます。
その後も神崎を弔ったという話です。

この話は、大高源五にも同じような逸話があります(こちらでは馬子の名は、団蔵)。
大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存していると聞きます。
(『ウィキペディアWikipedia)』抜粋、参照)

しかし、後世の偽作と思われます。
武士が、いそいそと詫状など書かないと思います。
それ程に、討ち入りの大事を思ったというお話です。

よく出来た話です。
演者の腕によって、涙ながらに聞いてしまいます。
講談、浪曲と人情ものはいいですね。

こうした話には、本伝、銘々伝、外伝とされる構成があります。
討ち入りの話、それぞれ浪士の個人逸話、それに番外編です。

人情のエッセンスが詰まっています。
人とはそうしたものです。
どんな人でも、こうした涙に感涙することがあります。

人の立場に立って、何がいいのか悪いのか、世の中の正義の判断です。
こうした世の中の判断が、少し狂って来ています。
何がいいのか、悪いのか、一概に言えないことも多いです。

仏法世界でも、悪人も善人も助かるといいます。
親鸞上人の「悪人正機」の悪人も、良い人、悪い人の悪人ではないですね。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」有名な一文です。

意味を知らないと、はき違えてしまいそうになります。
阿弥陀様ご縁にすがる他力の意味が大きく関わります。

しかし、本来、悪か善かは難しいです。
紙一重、いえ、もしかしたら同じであるかもしれません。
それほどに、普遍性のないものです。
相対的なものです。

法華経においても、「諸法実相」ということが説かれています。
大変難しい言葉です。

世の中には、絶対的なものと、相対的なものがあるように思えます。
人間の世界では、相対的な世界に暮らしているように思います。

絶対的な世界とは、仏の世界かもしれません。
人である以上、体もいつか無くなります。

この世の中も、仮のもの、すべてがそうなりますね。
でも、その中であっても、魂は輪廻を繰り返し続けます。
そういう意味では、魂という形のないものが、普遍なものかもしれません。

その中で、前世の記憶があるというのは、大変特別なものかもしれません。
お釈迦様は、前世の、そのまた前世の、そのずっと前の記憶もお持ちでした。
前世の得た知識が、悟りが、開花してこの輪廻の輪から解脱出来たと言うことなのでしょうね。

もし輪廻の中にいるとしたら、人の人情の深かった時代の記憶が、魂の中に残っているはずです。
肉体と魂、一対であって存在するものでしょうね。

でも、この頃の残虐な事件を見ていると、魂のない肉体だけの人間が増えているような気がします。
もしくは、人間世界とは違う、もっと下位の魂が肉体に入り込んでいるかのようですね。

世の中が穏やかであって欲しいです。
12月は、いろいろな出来事が起きます。

最後の月には、いろいろな人間模様がうごめきます。
悲しい出来事が紙面をにぎやかします。
悲しいことです。

人間の本来の魂に問いかけたいです。
どこから来て、どこに向かうのかとね。

初日から少し暗い記事になりました。
やはり、凹みの傷が癒えません。

今日も、今月も、穏やかに無事に過せますことを祈るばかりです。

最後まで長々とお付き合い下さいまして、こころよりお礼申し上げます。