''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「浅野内匠頭」刃傷の原因に関する一考察。

今日は本論で行きます。

 

何故、浅野内匠頭吉良上野介に、江戸城内松之廊下で、小さ刀で切りつけたのか?
原因不明です。
事件の後の取調べにも「遺恨あり」と記されるばかりです。

 

高家の立場から、「いじめ」「いやがらせ」挙句の果てには「田舎侍」と罵倒されたと揶揄されています。
しかし、それは後からの芝居じみた演出です。

 

城内で、刀を抜けば、切腹お家取り潰しは、常識です。
武士たるもの、大名家足るものが、公式の儀式の中で、刀を抜いて切りつけることは考えられません。
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(写真は短刀です。この様な手の込んだ名刀であったのか 「月刊刀剣・ナイフ情報」より)
如何ばかりのそれなりの理由があると思うのが、常識です。
常識に囚われては、この事件は解決出来ません。
もちろん、当事者も黄泉に旅立った今では、あくまでも推測の域でしかありません。

 

300年を経っても未だに芝居やドラマで何度となく取り上げられます。
それは、それだけいろいろな人情として、日本人の魂に訴えるエッセンスが濃く含まれているからです。

 

しかし、現実は違います。
一晩での大広間の畳の取替えも、精進料理の作り変えも、大紋直垂の衣装の手違えもありません。
当時の常識からすれば、間違えるはずはありません。
当主の個人の知識でなく、それに詳しい家臣が典礼の手続きに基づいて、支度を整えています。

 

吉良の殿様は、源氏の血を引く正統な武士です。
源氏血筋が、浅野の血筋が軽かろうが、相手も大名家です。
それも朝廷から官位を賜っている大名の当主です。

 

ましてや、その浅野本家ともなれば、42万石の一国の大大名です。
浅野内匠頭を「田舎侍」と呼ぶなら、同じ血筋の浅野本家も、三次浅野家も同じく「田舎侍」ということになります。

 

そうなれば、世間を騒がす、謀反の兆しこれありです。
それだけでも、吉良家は取り潰しの憂き目に遭うはずです。
同じような先祖を持つ者が多数います。
まさしく天下を揺るがす大事です。

 

そんなことは分かっている吉良上野介です。
分別のある当時としては一流の文化人、それも古今の典礼にも詳しい知識人です。

 

血筋の良さから、幕府と朝廷のとりなしをするのが、高家として役目です。
そんなような御仁にしては、ありえない発言です。
いじめというなれば、すべてがいじめです。

 

今回は、天皇家からの勅使をお迎えするのが、浅野家の役目です。
費用は、浅野家の費用です。
宿泊、飲み食い、諸経費、すべて浅野家持ちです。
これほどの幕府のいじめが、他にありません。

 

時は元禄時代です。
ちょうど、バブルの時代です。
経済は膨れ上がっています。
金がすべての時代です。

 

浅野内匠頭は、勅使接待のお役は、天明3年以来、これが2度目です。
前にも、この吉良上野介が教授しています。
まさしく先生に当たるはずです。

 

前回は、当主17才と若いかったため、分別のある家老(大石頼母助)が一切を取り仕切っています。
(内蔵助の大叔父ですね)
いろいろと手回しや心づけとしていたことが伺われます。

 

ご教授して下さる吉良様にもそれなりのご挨拶があったはすです。
水心、魚心です。
吉良上野介も「あれよ、これよ」支持されて、機嫌よくされていたと思われます。

 

お役の後も、そのお礼や時節の挨拶は続いていたと思われます。
有能な家老がいなくなると、そうした細やかな気遣いはなくなります。

 

内匠頭には、「痞(つかえ)」と称する持病があったようです。
この痞がどんな病気か、不明ですが、要するに精神的なストレスから来るものではないかと思われます。

 

どうも、細かいことを気にする性格のようでした。
人に対する気遣いでなく、何か気になると自分で確認したくなる細かいところがあるというところですね。

 

赤穂浅野家は、火消し大名としても名を馳せていたとも聞きます。
それだけに、家臣対しても、火の元用心やその元になる薪や炭などの燃料にも、注意が入っていたはずです。
それは、きっとその購入代金にも及んでいたはずです。
経済的な細かさもあったように思われます。

 

今回の勅使接待のお役も、前回の費用を調べさせていたはずです。
物の本よると前回700両近くかかっています。
今回は1200両です。
当然、浅野家の費用ですから、経費削減を求めます。

 

幕府も当世の贅沢の流れは良しとはしていません。
幕府が武士の模範ですからね。
経費削減を求めます。
しかし、経済はそのようになっていません。

 

去年より、質を落とされたのでは、勅使も下に扱われたとお上や朝廷に物言います。
それ以上に、幕府と朝廷の中に入る吉良上野介の立場はありません。

 

ですから、当然経費を下げるようには振り舞いません。
高家、源氏の血筋としては、名誉はどうしても譲れません。

 

浅野と吉良には、こうした経済に対する考えの違いが有ったのは明らかです。
浅野家は、自分が支払います。
他藩よりは裕福な家柄とはいえ、次から次からの幕府の要求には費用がかさみます。

 

無理難題を言われても、徳川の臣下である以上逆らえないのは現実です。
しかし、源氏の血筋とはいえ、吉良上野介から入用について、つべこべ言われる謂れはありません。
この辺の蟠(わだかま)りがあるのは、当然考えられます。

 

度々のことに、ストレスが強くなっていたのは当然です。
事件の前にも、こうした痞えの病状は出ていたと思われます。

 

たぶんお役の最終確認の途中で、プッツンしたのだと思われます。
一瞬の「切れた」ことにより、刀に手をかけてしまった。

 

その場にいた梶川与惣兵衛(700石)に取り押さえられた。
そうなると、気持ちが落ち着いたというのか、気が治まったというのか、大事をなしてしまったという気持ちが強くなって、ぐったりです。
後は、終止自分に非があると認めます。
しかし、乱心ではなく、遺恨あっての、武士のとして行動であると一環して述べます。

 

吉良上野介は、分けなく殿中で刀を抜くなどと考えていません。
典礼に精通している上野介には、理解を超えています。
どうして自分が切りつけられたのか、理解もできません。

 

当世の華美な風潮は、毎年のこと、それに経費を一気に下げて何がいいものか理解できません。
毎日のことではなく、帝の勅使をお迎えする特別な儀式に経費がかさむのは当然至極のとです。
そう考えていても不思議ではありません。

 

吉良の殿様としては、常道、正論を主張されます。
常の世の中の流れです。

 

人一倍、聡明なお方であっただけに、経済の流れと時節の流れに、我の道を歩もうとされたところに歪が生まれたのかも知りません。

 

ですから、誰にも当時の状況にあって、当時者にならないと分からないことが多すぎます。
それが返って、歌舞伎や芝居に脚色しやすかったとも言えます。

 

理由はどうであれ、浅野家臣が、吉良家に討ち入って、その首級をあげたことは事実です。
武士の魂が廃れた時代には、やはり快挙です。

 

内蔵助の筋の通し方、喧嘩両成敗として武士の道、政道の花道を我の道を歩いたことは、やはり凄いことです。

 

得した人はいないです。
しかし、損得でなく、自分の道を天命を聞き分けて、歩んだ生き方は、学ぶべきものがあります。

 

何もないのが一番です。
それが幸せなことであると、痛感します。
先人の命を懸けた行いに、過ちは犯すことがないように学びたいです。
今あることに感謝です。
ありがたいと日々を暮らします。

 

今日も何事もなく無事に過ごせることを祈るばかりです。

 

今日も長々しく、私見をお読み下さって、心よりお礼申し上げます。
(『「忠臣蔵」の謎学』中島康夫監修 青春出版社 参照)