''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「ハッチのパセリ」より。

ハッチと言うと、♪ゆけーゆけーハッチ、みなしごハッチ・・・と口ずさむのは、40オーバーです。
『昆虫物語 みなしごハッチ』ですね。
前にも記事にしています。

それとも、「隙があったら、かかってこんかい」の岡八郎さんでしょうかね。
通信教育で空手を学ばれていましたからね。(笑)
今で言う、エアー空手でしょうかね。
それとも本当に「空(くう)」の手という意味でしょうかね。

沖縄が発祥でしょう。
沖縄、当時は琉球ですね。
琉球は、微妙な立場でした。
薩摩藩に支配されていたと同時に、中国の清にも支配されていた政治的に弱い立場でしたからね。

当然、薩摩藩によって武器を取り上げられていた。
その為、すでによる唐手(当時)の発達を見ます。
からしても、中国の唐の字が当てられていました。

昭和10年、船腰義珍(ふなこし・ぎちん)により「唐」の字が「空」へと改められることとなったようです。
当時の国際事情からに中国を表す「唐」という文字は不適切というご時世です。
このため、急遽、般若心経の「色即是空」より「空」の文字が取られ、今日我々が使う「空手」という言葉が誕生したとのことです。

やはり、空手は「空」は「空(くう)」なんですね。
敵に攻撃でなく、自己の精神修練ですね。
相手はいません。
「空(くう)」ですからね。

まさしく「エアー空手」です。
もしあえて相手というなら、自分ですかね。
いえいえ、やはり「空(くう)」ですから、相手はいません。

空(くう)という空間に住しています。
欲でなく、修練でなく、自己の存在も何もかも持たないまさしく「空(くう)」ですね。
そこには、怒りも疲れも何もありません。

仏法世界「妙法華経」では、如来の座は「一切法空」と言われます。
いらいらも怒りも欲もありません。
すべて夢の中です。一時の仮の存在です。
如来様も、その仏の世界に住しています。

魂の世界は普遍です。
肉体には、その限界があります。
輪廻を繰り返す前提にあるのも「空(くう)」です。

今日のいらいら、腹立ち、つらさも、まさしく「空(くう)」です。
精神の拠り所を修練するのが、現世です。

いろいろなところに「空」の考えが役立ちます。
たとえば、ここに御馳走があると考える。
ステーキーにしましょうかね。

大きなステーキーです。
思いながら、我が家の貧家の食事です。

一汁一菜でも、楽しくなります。
エアーステーキーです。
あると想像できる気持ちが、心の豊かさです。

何度かに一度は、現実のステーキーも必要です。
そうしないと味が想像出来ませんからね。(笑)
ステーキーソースの代用って手もありますね。
無ければないで工夫する、そこに生きる楽しみを見つけます。

空といえども、空腹は現実です。
何か食べようと冷蔵庫を探します。
スパゲッティーがあります。
ミートソースも見つけました。

これで空からひとまず退避です。
しかし、パスタの色とミートソースの色では、何か物足りません。
そこで、パセリです。

あいにく切らしています。
そんなとき、乾燥パセリが役立ちます。
「エアーパセリ」ですね。
イメージ 1

88円のHachiのパセリです。
これはありがたいです。
白地に赤に緑の補色の色合いです。

ぐっと、食欲が増します。
緑は、食欲を掻き立てます。
緑にはそうした色の効果がありますね。

緑と赤は、間逆の色合いです。
「妙」と「法」の関係でもあり、一対をなします。
緑があることで、赤は引き立ち、赤あることで緑は引き立ちます。
別々にあるより、二つ揃った方が、相乗関係にあります。

♪あるとき、ないときのCMのことを思い出しましたね。
あの肉まんのCMですね。

あるときは、ないときがあって初めて、ありがたいと思います。
ないときは、あるときがあって初めて、ありがたいと感じます。
悲しいような気もしますが、あの肉まんの味を知っていなければ、そのありがたみも知らないままです。

人生も同じかもしれません。
何もないのは、もともと何も無いのでなく、あったとき、なかったときを知った上で、何もないと感じることです。

器の中に、饅頭がある。(有)(法)
器の中に、饅頭がない。(無)(妙)
つまり、無とはそこにないということです。
いえ、見えないというだけです。

妙法の「妙」の世界です。
無いというのは、もともと存在しないというのでなく、そこにないという状況ですね。
あるかないかは、見えるか見えないかの関係でもあります。

よくみて下さい、器の中に、四角い葉書状のものがあります。
それを真上から、縦に置くと、一見すると無いように感じます。
そのものを横にしたら、やはり四角い葉書に見えます。
そこにないというのは、こうしたものかもしれません。

その器自体が、まさしく「空(くう)」ではないのかと感じます。
私は、仏の世界にご縁を頂いています。
それが「空(くう)」する器です。

その中で、今あるのは、この現世です。
肉体の滅んだ状態には、その器には存在しません。

しかし、よく見ると魂はその器の中にいます。
見えないだけです。
また、肉体を得て、その空の器に見えます。
これは来世ですね。
この繰り返しを司っておられるのが、如来さま・仏さまです。
その中に住しています。

これが、「妙法華経」の言われる如来・仏の座ではないのかと感じています。
この器の中に住していることは、まさしくありがたいです。
安心があります。

生かされています。
ありがたいと感謝の念が沸きます。
幸せであると感じます。

根底が見据えられたと感じると安堵の気持ちでいっぱいです。
その空間、まさしく日常の生活の中でも、あるときないときは、生かされます。

きれいな花を見て、それはあるとき、すこし時間が経てば、無いときになります。
あなたに見てもらうために咲いていたのかもしれません。

月を見て、花を見て、今ある瞬間を、目線を下げたところの見えないものを見つけることに、生きる喜びがあるのかもしれません。

今日も平穏無事に過ごせますように手を合わせます。

最後まで、乾燥パセリの軽いエアーな話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。