''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

菜の花を眺めていたい。

春の訪れを感じるような穏やかな気温です。
春めいたと感じます。
暑さ寒さも彼岸までと言われるように、今月18日に彼岸の入りです。
京都の年配の方は、お水取りが終わらない暖かくならんと言われます。

お水取りとは、東大寺二月堂修二会の儀式ですね。
松明の火の粉を撒き散らすあの儀式ですね。
テレビとかのニュースでよく見かけます。

修二会は、十一面観世音菩薩を本尊とし、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔の行を行うもののようです。

春の訪れを感じさせる儀式です。
1259回と歴史のある儀式です。

そんな儀式を感じなくても、日々の生活の中に、小さい儀式があります。
花のつぼみが、開花する。
鳥の鳴き声が聞こえる。

朝の目覚めが、何となく心地よいなど、日々の生活の中に、小さい小さい儀式が折り重なっています。
ありがたいです。

四季の移ろいの中に、住しています。
水の冷たさも、それほど苦にならなくなりました。
春を五感で感じます。
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仕事場に行く途中に、菜の花が咲いています。
一面の菜の花畑です。

菜の花や月は東に日は西に 

有名な蕪村の俳句ですね。
夕刻、菜の花畑をバックにして、月が東の空に、夕刻のまだ沈まぬ太陽が西にある、そんな情景ですね。
黄色とオレンジとそして白、色のコントラストもいいですね。

家路に向かうのか、またまた旅の途中の出来ことか、それは不明です。
月と太陽は、陰と陽、二つの対する世界です。
二つで一つともいえます。

春分秋分も共に、太陽の出の時間同じ、対する関係にあります。
月と太陽ともに、そのイメージが、この俳句に感じます。
菜の花は、この時期の春分のイメージです。

月と太陽の中に、菜の花がある。
つまり、自分のその中する中に住するという哲学的なメッセージも感じます。
小学6年生の時に、学校で学んだ俳句です。
子供の頃から、こうした俳句は好きでしたね。

季節の中に存在する、それを切り取って俳句という17字の宇宙を創造する世界です。
子供にでも出来る楽しい世界です。
すぐに作れましたね。
季語がどうとかでなく、川柳でもいいんです。

言葉を創造する主になれたような気がしましたね。
17字の宇宙は無限です。

先人の作った俳句に、その切り抜いた空間をイメージします。
時に写真であったり、音楽であったり、その場の雰囲気であったりと、時間や時空を越えて、現在の私にも伝われます。

蕪村の俳句には、哲学的なものを感じます。
芭蕉とは違う硬い中にも、その世界観を感じます。
書画にもそれが感じられますね。

晩年には、京都に定住します。
同じ京都の空を見て、同じ月と太陽を見ています。
そこに、蕪村が見たと同じ菜の花畑がそこにある。
何を想い、何を感じたのか、古人(いにしえびと)に思いをめぐらします。

春はいいです。
心が穏やかになります。

ありがたいと感じます。
もう少し、菜の花畑を眺めていたですね。

こんな花見も楽しいです。
もちろん、今夜の晩酌は、菜の花のからし酢味噌和えと来れば、出来好きです。
静かに時間を過ごしたいですね。

今日も平穏無事に過ごせますように、祈ります。

最後まで、菜の花話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。