''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

ボスと一緒に歩こうか!! その2 方広寺より

今日も昨日に続いて、先日のボスと一緒に歩こう会へと駒を進めます。
三十三間堂を後にして、次に向かったのは、方広寺です。

あの大坂の冬の陣、夏の陣を勃発させた曰くの梵鐘があるお寺です。
過去にもここの記事を書いています。
もとろん今でも見ることが出来ます。
「国家安康」「君臣豊楽」の銘文ですね。

家康を二つに分ける。
豊臣家の繁栄を念じている。
徳川に対する謀反これありと、家康の難癖ですね。

徳川は豊臣の家臣ですから、それを逆転させることは、なかなか容易ではありません。
徳川が征夷大将軍と言えども、摂関家の家柄を養子縁組で持つ豊臣の方が、高い位置にあります。

方広寺というと、大仏のイメージですね。
「刀狩り」して、その鉄で大仏建立ですからね。
幾度と無く、地震や火災に見舞われます。

一番新しい大仏は、昭和48年に火災により消失です。
私も子供の頃に、このニュースをテレビで見た記憶があります。
父に京都にも大仏あるのって聞いた記憶があります。

小学生低学年の子供と言えど、大仏と言えば、奈良と鎌倉です。
高岡の大仏様ごめんなさい、子供の頃には知りませんでした。

拝観料を納めれば、大黒天堂と本堂に入ることが出来ます。
お寺の方が案内して説明までして下さいます。
写真も撮ってもいいとの温かい言葉です。
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豊臣秀吉は、大黒天を厚く帰依していましたね。
伏見にも、東山にも、大黒天が安置されています。
出世大黒とかとも言われる持佛の大黒天です。

大黒天は、もともとインドの神様です。
武人の神様でもあります。
七福人のお一人でもあります。

大黒天堂には、伝教大師最澄が彫られた曰くのある大黒天がお祭りされています。
これの小さいミチニュアを持佛としてもたれていたようです。

伝教大師最澄が、延暦年間に桓武天皇の勅命により、比叡山鎮護国家の道場を建設するために、比叡山に登っている最中、神人が現れて、「一切の枯搞の衆生を充潤して、皆苦を離れて、安穏の楽、世間の楽、及び涅槃の楽を得せしむ」と妙法華経薬艸(草)諭品第五の句を唱え、「この山を開き、法を広めるなら永く守護しよう」と言われたと寺の申し伝えです。
(一部補足しています)

この神人が大黒天のようです。
大変立派な大黒天さまです。

方広寺と言えば、梵鐘の拝観だけと思っていましたが、やはりその道に通じたボスが教えて下さいました。
なかなかやりますね。
イメージ 2

大黒天堂の横の本堂には、盧舎那仏(るしゃなぶつ)さまが安置されています。
凄いです。
この10倍のものの大仏があったと聞きます。
奈良の東大寺の大仏さまも、同じ盧舎那仏さまです。
残っていれば荘厳なお姿でしょうね。
イメージ 3

それに初めて知った伝左甚五郎作の欄間にあった龍の彫り物もありました。
近く強い作品です。
欄間にありましたので、上から見下ろす目線の龍です。
寝転んで写真をとるのがいいと言われました。
二人のボスも寝転んでカメラ撮影です。

この方広寺にも七不思議と呼ばれる曰くがあります。
あの梵鐘の内部に、淀君の幽霊と言われる白いしみがあります。
確かに言われると、長い髪の毛の女性にも見えないことはないです。

私として、重さ82.7トンもある梵鐘が落ちてこないかとヒヤヒヤしました。
全員中に入っていますので、救助の物はいません。
娘道成寺じゃないですからね。

中国の故事の杞憂(きゆう)みたいですね。
周代、杞の国の人が、天が落ちて来はしまいかと心配したという「列子(天瑞)」の故事に由来します。

でも、梵鐘の内部に入ると、いつか重さに耐えかねて、鐘も落ちますからね。
恐ろしいですね。

気が弱い私ですね。
そんな気分の時もあります。

なかなか、方広寺楽しめました。
ボスのお知恵の賜物です。
知らないと絶対に分かりません。

なにやら、六波羅の方に向かうようです。
「待って下さいな」
愚図で鈍間な亀さんです。

スチュワーデス物語」の当時の堀ちえみさんみたいですね。
今も時々テレビでお見かけしますが、今でも可愛らしい感じのある同世代の大好きなタレントさんですね。

この日は天気が良かったから、いい運動になりましたよ。
ありがたいと感謝の気持ちです。
残り少ないボスとの時間も楽しめています。
皆さんお顔の雰囲気が穏やかです。
いい時間を過ごされています。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせます様、「安穏の楽」、「世間の楽」を祈るばかりです。

最後まで、梵鐘の鐘の音の如く長くお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。