''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

2種の菊の鉢植えから見える物語より。

秋が深まります。
木々も紅葉の染まり、山も秋姿に移っています。
季節は、既に初冬の気配です。
もう少しゆっくりと秋を楽しみたいと思いながら、すでに11月も中旬です。

 

もみぢと言えば、かつて一昔前は10月中旬から11月末までの感じがしていました。
今で12月入った頃が、もみぢの見頃のシーズンです。
もう5、6年前でしたでしょうかね、嵯峨の小倉山辺りに仕事で出かけました。

 

朝7時前です。
錦の絨毯がそこにはありました。
12月入って少しした5日前後の事だと記憶しています。
「錦のまにまに」です。

 

その時間、誰も通っていません。
一人占めの、嵯峨の小倉の紅葉です。
未だにこれ以上のもみぢは見たことがないです。

 

よく行くのは、やはり東福寺です。
こちらも、景色の中に、映画のような世界を切り抜いたようなもみぢの紅葉です。
中に入らず、木製の臥雲橋から見た風景が最高です。

 

その手前にお店があります。
その上の木すべてが、もみぢです。
天も地も、見渡す限り、錦のまにまにです。
これも私のもみぢの最高傑作の3本に入っている光景です。

 

見渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの あきの夕ぐれ

 

定家卿の秋の和歌が思い出されます。

 

もみぢも桜もないのに、秋の趣を感じるあばら家から見る秋の夕暮れが大変ナイスと言っています。

 

私もこの和歌を聞くと、この小倉と東福寺のもみぢを思い浮かべます。
一番いい紅葉を見ると、今年はもう少し先だとか、いろいろと感じます。
100パーセントの満足は、なかなかありません。

 

それでも、秋イコールもみぢ・紅葉というイメージもワンパターンですね。
美しいけれど、それだけではありません。
イメージ 1

家の近くの玄関に置かれている菊の鉢植えです。
何とも綺麗な秋がここにもありました。
それに2種盛です。
姿は少し違いますが、菊の美しさを感じます。

 

誰に見られるためでもなく、菊が菊として凛とした姿で咲いています。
何とも美しいです。
皆さん、この前を素通りです。
勿体ないです。

 

こんなに美しく咲いている菊を素通りして、紅葉を楽しみに遠くまで出かける。
それも、いいでしょうね。
でも、近くにこんな立派な秋があるんです。
平日でも十分楽しめる秋です。

 

花をのみ 待つらん人に 山里の ゆきまの草の 春を見せばや

 

家隆卿の和歌です。
あの気の強い定家卿も、一目置く歌人ですね。

 

桜やもみぢを通り過ぎて、もっとその奥にあるような「ゆきまの草」の境地に達することはなかなか出来ません。
茶人も、この二つの和歌をいろいろと対比されます。

 

あら楽し 花ももみぢも 有り無しと 町屋に咲いた 菊の鉢植え
    by かんとうしょうえ(自作の和歌です)

 

今日はこんなの出来ました。
桜ももみぢもあれば、あると楽しいです。
無くても、道端の家の玄関に咲いた菊の鉢植えでも、十二分に季節を楽しめます。
お手軽な幸せです。
それも私にとっては、至福の時間です。

 

時間があればあれで、楽しめることもあります。
経済的にゆとりがあれば、金銭で楽しめる楽しみ方もあります。
かといって、身は一つ、時間も金銭も余裕がないなら、自分で見つける楽しみもあります。

 

どこでもいつでも、「よかった」という幸福は身近に落ちていると思います。
それを侘びというか寂びというかは、私には次元の違う問題です。

 

「あー、よかった」と思える物の見方、捉え方で、人生も大きく感じ方を変えることが出来るというのが、信条です。

 

自分の身の丈にあった幸せがあります。
それを見つけるか見つけないかと、気持ちの持ちようですね。
仏縁に繋がる喜びから、いろいろな物が目線を下げて見えるように感じます。
ありがたいです。

 

生きているのでなく、生かされています。
きっと、何かの力でです。
それを感じるか感じないか、それだけです。
ありがたいことです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、菊の鉢植えの話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。