''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

梅田でお昼を頂きましょうより。

池田の逸翁美術館を出てから、梅田に向かいました。
京都に住していると、なかなか梅田には来ませんね。
京阪電車沿線に住まいしていますと、淀屋橋に行くことは多いです。
それに私のテリトリーは、やはり京橋ですね。

♪京橋は、ええとこだっせ。グランシャートーがおまっせ。~
(現代訳 京橋はいい所です。グランシャトーというお店もあります)
グランシャーという総合レジャービルのコマーシャルです。

梅田はは人が多いですね。
休日ということもあり、人酔いしそうになります。
同行カメラマンが、こっちこっちと地下に誘います。
どうやら、昼ごはんに向かうようです。

いろんなメニューの写真が壁一面に貼られているお店でしたね。
名前は、覚えていません。
とりあえず、メニューの多い店です。
大抵の定食が680円というもの、梅田のビジネス街ならではですね。
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私は、鳥南蛮の定食にしましたね。
南蛮渡来の飛び道具に違いありません。

ごはんのお替り自由の、スープとメインの取り合わせです。
アフターに、ドリンクも付きます。
これなら、なかなかのお値打ちですね。
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その前に、一杯呑みました。
梅酒ソーダーです。
ビールでなく、梅とは否ことを、いえいえ、この時期あれです。

梅と言えば、この時期、赤穂浪士忠臣蔵です。
浪士の一人、大高源吾忠雄(おおたかげんごただたけ)の辞世の句を思い出します。

「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」
今生最後の酒を、梅で呑むとは何とも優雅ですね。

元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士切腹が命じられ、松平家預かりの浪士10人と共、最後に切腹の折、上の一句を残しました。享年32です。

水間沾徳に弟子入りして俳諧を学び、俳人としての才能を大いに発揮した文人でもありました。俳諧集『二ツの竹』を編著し、子葉の名で知られます。
元禄9年(1697年)の参勤交代への従軍ではじめて江戸へ入り、翌年10年(1698年)に赤穂へ帰国するが、その道中を紀行文にして『丁丑紀行』を著しています。(ウィキペディア参照、一部抜粋)

そんな訳で、梅田で梅を呑んだのです。
最近流行のソーダ割りです。
この辺は流行に敏感です。

何とも優雅に、死出の旅に旅立たれたことでしょうね。
主君にも、ご先祖にも鼻高だかな、旅立ちだったことでしょうね。
生きていれば、もっと有名な俳人になっていたのかもしれません。
それを思うと残念ですね。

これもご縁というか、この御仁の天命だったのかもしれません。
これも赤穂事件の話の一つです。

現代に生まれたことに感謝します。
ありがたい仏縁を頂けた事にも感謝です。

つまならいことに腹を立てず、いらだたず、穏やかに過ごしたいです。
心の三毒を廃し、安穏に暮らすを旨とします。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、梅ソーダの話に「そうだ」とお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。