''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

うまいお茶が飲みたい !! 「喫茶去」編

まだまだ寒さ感じます。今日は啓蟄(けいちつ)です。虫が地下の穴からむずむずと出てくる日だそうです。またひとつ季節が進んだことに、喜んだ気持ちも惜しむ気持ちもあり複雑です。

痛風には水分が必要です。でも、この季節に水をガブ飲みも出来ません。こんなときは暖かいお茶如何でしょう。

私はお茶が好きですが、その中でも「雁がね」が好きです。平たく言えば、葉っぱでなく「茎茶」です。香りも好きですし、すっきりとして上品な味が好きです。もっと言えば、ほうじ茶の雁がねと言うのもあって香りがいいんです。すこし、チョコレートのような香りがします。これに合うのは「かりんとう」でしょうかね。少しでも満足幸せ感じます。安っぽいですが、身の丈に合っています。

もし緑茶なら、京都出町柳のふたばの豆餅でしょうかね。素朴であの豆の食感存在感あります。それでいで主張しすぎず、主役にひけをとりません。ほのかな塩見、餡の上品な香りと食感、もちろん味は最高です。簡単なだけに職人さんの腕とお店の饅頭に対する方向性がはっきり分かります。後世に残こしてほしい味です。

禅の言葉、禅語に「喫茶去」(きっさこ)と言うのがあります。お茶をめしあがれと言う意味です。間違っても、茶を飲んだに帰れと言う意味ではありません。趙州従?洳(じゅうしん)という偉い坊さんが使われていた言葉らしいのです。

雲水(修行の僧)が訪ねてくると「あんたはここに来たことがあるのか」と問われるそうです。でも、どんな答えに対しても「喫茶去 まあ、お茶をおあがり」と言われる。誰に対しても同じように言われる。

日常的ななんてことない話なんですが、偉い坊さんが言われると違うんです。悟りの境地に至ってるんでしょうね。芳賀幸四郎さんはこれを「お主はすでに悟りを得ているのか」と問うておられると著書で述べられています。

私は、自然体を自然体と意識せずに自然体をなす。そんな気がします。子供は無邪気ですが、かならず、大人になります。そのときの気持ちを推察することは出来ても、そのときの気持ちや感動までなりきれる事は出来ないと思います。一度一度が最初の時のような心を空して「喫茶去 お茶を召し上がれ」と言えることが大切なのかもしれません。稚拙で薄学な解釈と笑ってください。(『禅語の茶掛 一行物』芳賀幸四郎著 淡交社 を引用)

私の職場のひとつに野郎が多いところがあるんですが、バレンタインデーに多い目に一口チョコを差し入れしたんです。男が男にと気持ち地悪いですが、籠かなんかに入れて、季節ものですからどうぞと言う気持ちです。そのとき籠の上に「喫茶CHO去」と書たんです。

自分では上手いこと書いたなぁと自己満足です。もちろん、喫茶チョコと読んでください(笑) 

チョコ召し上がれ。そんな気持ちですが、数時間後には空と相成りました。