''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

淡路島の阿波の鳴門物語より。

三寒四温の如く、少し季節が戻りました。
うー、寒いです。
雨による寒さもありますが、気温が一気に10℃近く下がっている気がします。
温かい鍋に熱燗というのが、いい取り合わせですね。

 

昨日は、家族会の淡路島への旅行の記事を書きました。
淡路というと、同じ兵庫ということもあり、馴染みがありながら、海を渡らないと行けないという少し憧れも感じる場所に思えていました。

 

兵庫の播州の生まれです。
そのご縁で、12月は赤穂浪士のネタを毎年書いています。
赤穂浪士、で淡路と言えば、脇坂淡路守です。

 

赤穂の明渡しに携わり、その後も次の城主が決まるまで、その留守居の任に当たっていたお家です。
映画やドラマの忠臣蔵でも、必ず主役クラスの大物がこの役に就きます。

 

脇坂家と言えば、賤ヶ岳の七本槍として武勇を知られ、その後に淡路洲本に3万石を与えられて、従五位下淡路守として代々「淡路守」が多いですね。
10代当主辺りから、寺社奉行や老中の要職に就く、譜代扱いの家柄となります。

 

出世して、知行地が3万石から、5万石辺りになると、いろいろと領地を変わります。
それも播州龍野で落ち着きます。
このまま、幕末を経て、明治には子爵として存続します。

 

江戸時代には、この淡路は少し不遇な時代に迎えました。
大阪夏の陣において、阿波の領主蜂須賀氏が、活躍をしたために、ほぼ淡路島8万石あまりを加増されます。
こうして江戸時代は、最初池田の領地にもなりますが、元和元年(1615)に、阿波徳島藩が淡路島を治めます。

 

実際には、蜂須賀家家老の稲田氏一族の所領となります。
家禄は1万石余りです。
洲本城代として、政務も取ります。
大名並の所領と権限を幕府からも得ます。

 

筆頭家老でありながら、独立した大名のような扱いを受けています。
ちょうど御三家の付家老のような存在かもしれません。
阿波の蜂須賀家が17万石、後に26万石と加増されると、謀反防止のための幕府の謀略かもしれません。

 

その為、稲田家の家来として、阿波の藩士とは別扱いです。
又者(またもの)と呼ばれます。
すべてにおいて、藩士とは違う差別された地位にありました。

 

高知の土佐の、上士、下士みたいな感じでしょうかね。
稲田家から言えば、阿波の蜂須賀家の客分、家柄は織田家重臣稲田家です。
方や蜂須賀家と言えば、川並衆、平たく言えば山賊紛いの豪族と言われても仕方がないです。

 

明治天皇も、蜂須賀の殿様が、慌てて天皇が部屋に入られた時、置いてあるタバコを自分懐に入れたのを見て、「蜂須賀、お家芸」とふざけられたと聞きます。
要するに、蜂須賀家は、もともと武家の家柄ではありません。

 

しかし、15代当主は蜂須賀の血筋でなく、徳川11代将軍家斉の子(なんとニ十ニ男)であったようです。
ちょっと複雑です。

 

こうしたねじれた関係から、明治の頃、「稲田騒動」(庚午事変)という事件が起きています。
幕末、稲田は倒幕派、蜂須賀は開国派と、「龍馬伝」みたいなことが、あちこちの藩で起こっていました。
この辺の歴史から、事件が発生し多勢の犠牲者が出ています。

 

2001年のNHKの金曜時代劇『お伊勢』の舞台もこの事件辺りですね。
沢口靖子さんが演じます。
凛としてお伊勢を演じます。
なかなかの好演でした。
イメージ 1

その中で、お伊勢が、人形浄瑠璃の頭だけを持って、劇をするシーンがあります。
よく覚えています。
淡路島と言うと、人形浄瑠璃のイメージもありました。
ちょうど宿泊したホテルの展示にも、それらをイメージする人形が置いてありました。
イメージ 2

義経千本桜です。
説明によると、この人形劇の歴史は古く500年近く前に起こります。

 

傀儡子(くぐつし)の縁によるみたいですね。
傀儡子と言えば、山岳民族で、古来か日本に住んでいた民です。
山に追いやられた民です。

 

歴史にも時折現れます。
徳川家康も、大阪夏の陣で命を落し、代わりに影武者世良田二郎三郎が後の家康となるなど、奇想天外の物語、隆慶一郎著 『吉原御免状もありますからね。

 

私も読みましたよ。
もう一度読み返してみたくなりましたね。

 

淡路の旅行も、私の記憶の中で、いろんな所に繋がっています。
これもありがたいご縁です。
いい時間を過ごせたことに感謝しています。
ありがとさんです。

 

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますよう、祈るばかりです。

 

最後まで、泡みたいに意味のない話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。