そんなことを嘆いても仕方ないです。
少しでも、そんなくらい話でなく、日々の暮らしを書き記します。
少しでも、そんなくらい話でなく、日々の暮らしを書き記します。
先週梅見の記事の続きです。
岡崎神社を後にして、西に少し行ったところに、北側に細い坂道があります。
この坂道を登ります。
すると、そこは黒谷です。
岡崎神社を後にして、西に少し行ったところに、北側に細い坂道があります。
この坂道を登ります。
すると、そこは黒谷です。
黒谷というと、京都では金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を差します。
京都駅から、タクシーで、「金戒光明寺に行って」と言っても、「はぁー」と聞かれることもあります。
黒谷へ行ってと言えば、金戒光明寺に向かいます。
京都駅から、タクシーで、「金戒光明寺に行って」と言っても、「はぁー」と聞かれることもあります。
黒谷へ行ってと言えば、金戒光明寺に向かいます。
正式な言い方なら、新黒谷というべきでしょうね。
でも、そうは言わず、こちらも黒谷です。
ダブル黒谷です。
でも、そうは言わず、こちらも黒谷です。
ダブル黒谷です。
あの平敦盛を討ち取った、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、建久4年(1193)に、この黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗い、この松に鎧を掛けて出家した言われています。
今の松に二代目のようです。
それでも、大変立派な松です。
平成15年、京都市指定保存樹に指定されています。
平敦盛と言えば、幸若舞の『敦盛』、信長公の「♪ 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」で有名な敦盛です。
それでも、大変立派な松です。
平成15年、京都市指定保存樹に指定されています。
平敦盛と言えば、幸若舞の『敦盛』、信長公の「♪ 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」で有名な敦盛です。
今奥に三重の塔の中に安置されていた獅子に騎乗する文殊菩薩が、御影堂に安置されています。
金戒光明寺の文殊菩薩と脇侍の尊像は、運慶作と伝えられています。
台座の獅子は、江戸時代のものようです。

お隣の阿弥陀堂の前に、梅が咲いています。
この金戒光明寺は、会津藩主松平容保公が、京都守護職に任命されるに折の本陣・宿舎となっていた場所でもあります。
家来と共1000人を引き連れて、この役に当ります。
金戒光明寺の文殊菩薩と脇侍の尊像は、運慶作と伝えられています。
台座の獅子は、江戸時代のものようです。

お隣の阿弥陀堂の前に、梅が咲いています。
この金戒光明寺は、会津藩主松平容保公が、京都守護職に任命されるに折の本陣・宿舎となっていた場所でもあります。
家来と共1000人を引き連れて、この役に当ります。
この寺は、城構えの寺としての機能もあります。
高台にあるので、天気のいい日には、大阪のツインタワーが見えるようです。
軍事上でも、要衝の地にあったと言えます。
高台にあるので、天気のいい日には、大阪のツインタワーが見えるようです。
軍事上でも、要衝の地にあったと言えます。
容保公も再三に亘って辞退され、二人の家老からは、辞退を勧められたにも関わらず、最後には、藩祖の保科正之公の「家訓」に、泣き泣きこのお役に就いた経緯があります。
文久三年、近藤・芹沢等は黒谷の阿弥陀堂で、京都守護職松平容保公に拝謁が、かなったました。
文久三年、近藤・芹沢等は黒谷の阿弥陀堂で、京都守護職松平容保公に拝謁が、かなったました。
それに、江の目を結んで、妾に生ませたのが、会津の藩祖・保科正之公ですからね。
年上の妻・江は、妾を許しませんでしたからね。
知れば、会津の藩祖・保科正之公も命も、会津藩も存在していないと言うことになるでしょうね。
年上の妻・江は、妾を許しませんでしたからね。
知れば、会津の藩祖・保科正之公も命も、会津藩も存在していないと言うことになるでしょうね。
不思議な縁が、どんな縁かは、知らないけれど、あみだくじみたいに、どこに行くのか分からないでも、繋がっています。
ありがたい仏さまのご縁です。
ありがたいと手を合わせます。
ありがたい仏さまのご縁です。
ありがたいと手を合わせます。
最後まで、黒白の話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。