''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

突然、口が「新福菜館」の中華そばになりました より。

昨日も天気は良かったですね。
今日は黄砂の為曇りの予感です。
首センサー、クビダス(かんとうしょうえの造語)も中確率を示しています。
雨の日には、何やらもっと違和感を感じます。
多分気のせいもあります。

ネットでいろいろと検索していると、思わぬところで、いろんな縁に繋がっています。
池波正太郎氏と言えば、食通で知られています。
私もこの方の作品が大好きです。

鬼平然り、秋山小兵衛然りです。
作品の中に存在する食に対する感覚も、身近に感じます。
作品の中では、旬の食材が登場します。
それも、江戸時代にあった調理法が、そこに垣間見られます。

中には、私にも手頃に作れる物があるのが、嬉しいです。
生きるは「食」ですからね。
それも、人も自然の中で暮らしています。
ですから、季節の旬を取り入れることによって、この瞬間、瞬間に生きる、いや生かされている何かの力を強く感じます。

その何かとは、私の場合には、ありがたい仏縁を頂いていますので、仏さまです。
何かを食しないと、生きていけないという人の「業(ごう)」も感じます。
ですから、食も大切な修行です。
禅においては、食も日常であり、大切な修行です。
作るのも、食べるのもです。

池波正太郎氏には、いろいろんこだわりがあります。
食通としての文豪でなく、自分でも作るという家庭の食が、子供の頃、回想の中で強く感じます。

庶民、下町、そこに息づくのは、江戸情緒です。
これが、江戸時代を分りやすく、私たちの現代人にも「食」を通して身近に感じる所以です。

大根をセンロッポン(チェンロープ)に切って、出汁の効いた小鍋仕立てでさっと煮て、小皿にとって一味や七味、粉山椒でも降り振りして、醤油をほんの少し垂らして頂く。
大根の持ち味を、最大限に感じる瞬間です。

おでんの大根のように、ぶり大根のように、じっくりあめ色になった大根も美味い。
しかし、さっと出汁で煮た早煮の大根も、その大根本来の持ち味を感じます。
甘いです。

江戸の味が、我貧家でも楽しめます。
これには、熱燗もいいし、冷の常温の酒もいい。
もちろん、ビールであつあつふうふうして、喉に流し込むのも悪くはない。

こんなのが、これほど美味いのものか、日本人としてのDNAに感謝する瞬間です。
それを、小説やエッセイから、共感、共有、そして、賞味できる喜びに震えることすらあります。

先日の、なまり節の記事も、私流のエッセンスも加えた初夏の楽しみです。
夏が来たと、魂も体も、初夏の到来を共に喜びを分かち合えた気になります。

そんな中、池波正太郎と検索すると見慣れない言葉を発見です。
池波正太郎のお母さん流すきやき」です。
私の中では、あまり馴染みのないキーワードです。
エッセイの中に、『味と映画の歳時記』にあったような気もする。
記憶が曖昧です。

確か、すき焼きの項目に、京都三条寺町角の「三嶋亭」の話の記憶はありますね。
そう言えば、エプロン姿の池波氏も記憶も、、、。
今一度見返す必要があります。

とりあえず気になって、そのブログを閲覧しました。
家庭的なあっさりとしたすき焼きの写真です。
これはいいと、その先に、私も好きな「大七のからくち 生酛(きもと)」の写真です。
科学ライターの高野俊一氏のブログでした。
この方もなかなかの池波ワールドをお持ちのようです。

その中に、新福菜館のラーメンと焼きめしの写真に釘づけです。
よく三条店に行かれているご様子です。
もちろん、私も三条店には行ったことがあります。
すこし、分りにくい場所にあります。

見たのは、一昨日のことです。
昨日は朝から、口が新福菜館の中華そばです。

プライベートな長年の問題を解決すべき、一案を投じた後、京都駅近くの本店にやって来ました。
お隣は、第一旭の本店です。
京都ラーメンの大本山の聖地です。
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早速、「並・麺カタ」そして、「瓶小」といつものオーダーです。
しかし、厨房に主人の姿はありません。
時間も昼時を外した3時過ぎです。
それでも、店内は途切れることなく人が入って来ます。

少し待って麺カタで、出て来ました。
すぐにブログの写真を撮って、麺の硬さを確認です。
やはり、主人と違って、切れが少し悪いですね。

お湯が汚れている場合には、お湯にとろみがついて綺麗にすっきり麺上げが出来ません。
しかし、2時30分頃には、お湯の入れ替えをするのが、忙しい店です。
麺の加減も、お湯は新しくなっているようです。
スープに、麺のゆで汁の味はしていません。
それじゃ、やはり主人と従業員の、麺上げ技術の違いです。

スープも幾分、薄くなっています。
これも麺の湯きりの技術の違いによると思います。
それとも、スープの加減が薄くなった時に、来たかもしれません。
いつもの醤油の強い加減が感じられません。

どうも、ラーメンの醤油ダレとスープの加減が悪かったようです。
幾分、スープが薄く、その上に量が幾分か多かったのが原因と感じます。
それほどに微妙なものです。

スープの旨みも、昼時に合わせますから、3時過ぎになると、その持ち味が薄く感じます。
少し残念な気分で頂きました。
それでも、口が新福菜館の中華そばでした。
この口をもって、第一旭のラーメンはありえません。

次回は、昼時前の11時30分過ぎを狙って、来店することにしましょう。
時々、新福菜館の中華そばが、切れることがあります。
無性に食べたくなります。
あるんです。(アルアルです)

それだけ、体に染み付いたのかもしれません。
仕事で近くにいた時は、週に3回は来ていましたからね。
モーニングラーメンも充分いけます。

軽く中毒状態でしたからね。
それほどに、何度か食べなれると癖になりますね。
体には、ほどほどにしないと、痛風の私には、怖い発作が起きます。

それにしても、新福菜館の中華そばの完成度は高いです。
他にない味わいです。
味とは、どこにもない味を新しく作り出すことが、難しいです。
味の創造者です。

人が多く足を運ぶ理由がそこにあります。
私の場合には、わざわざここに足を運んだということになります。
私の中では、☆の数は多いです。

値段の多寡によって、美味いものがあるのも事実です。
しかし、それ以上に値段でなく、新しい味やオンリーワンの創造性に☆を与えるべきではないかと感じますね。

オンリーと言えば、厭離穢土 (おんりえど若しくは、えんりえど)です。
厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)は、欣求浄土と対句しています。
浄土教の用語ですね。
それ以上に、戦国時代好きな方なら、徳川家康の馬印・旗指物でしょうかね。

意味としては、この穢れた娑婆世界を厭い離れ、阿弥陀如来の清らかな極楽浄土への往生を切望するという事でしょう。
それをこの現世に作るを、旗頭にする精神的スローガンともとれます。

それとも、戦火を恐れることなく、指揮を高めたことだけなのでしょうか。
私は、前者の意味と取りたいです。
天下を取るは、我私欲にあらず、国のため、天から仏からの使命とも取れますね。

戦国時代多く人が、幾多の戦の中で、命をやり取りして来ましたからね
平和を願うのは、多く人の願いでもありました。

慶長20年(1615年)、天下統一した家康は、大坂夏の陣において豊臣家を滅ぼしたことにより、元号を戦国の慶長から元和に変更させた。
これを元和偃武(げんなえんぶ)と言います。

これにより、応仁の乱以来150年近くに亘った戦国時代の終結を内外に示したことになります。
まさしく、徳川の天下統一です。

ここ数日、国際社会の中、アメリカの敵を倒したことが、ニュースで報じられています。
これが終結でなく、新たな報復のテロの引き金を引いたような気がします。
真実を世に問うなら、裁判に訴える方法もあった訳です。

それでは、アメリカに不利になることも、あったかもしれません。。
死人に口なしですね。
国際社会のルールが、一国の暴挙によって、主権が侵されたような気もします。

そこに正義はあったのでしょうかね。
グランドゼロで歓喜する姿を見て、少し冷ややかな気分になったことは確かです。
起した犯罪は大罪です。

それが事実であったのか、サダム氏の例もあります。
なら、法の裁きを受けるのが、社会のルールと思いたかったです。

ラーメンから、こんな国際問題を論ずるつもりはなかったですね。
麺が伸びてしまいます。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすことを、祈るばかりです。
この世が、西方浄土のような、本当の清らかな社会になることも祈ります。

娑婆世界も捨てたものじゃないと思います。
私にはありがたい仏縁を頂いています。
ありがたいことです。

この世の修行は、悪い行いをしないて、いい行いをなすことです。
悪い縁を断ち切り、いい縁を結ぶことと考えます。

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、複雑に絡んだ麺のような長い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。