昨日も天気は良かったですね。
今日は黄砂の為曇りの予感です。
首センサー、クビダス(かんとうしょうえの造語)も中確率を示しています。
雨の日には、何やらもっと違和感を感じます。
多分気のせいもあります。
今日は黄砂の為曇りの予感です。
首センサー、クビダス(かんとうしょうえの造語)も中確率を示しています。
雨の日には、何やらもっと違和感を感じます。
多分気のせいもあります。
中には、私にも手頃に作れる物があるのが、嬉しいです。
生きるは「食」ですからね。
それも、人も自然の中で暮らしています。
ですから、季節の旬を取り入れることによって、この瞬間、瞬間に生きる、いや生かされている何かの力を強く感じます。
生きるは「食」ですからね。
それも、人も自然の中で暮らしています。
ですから、季節の旬を取り入れることによって、この瞬間、瞬間に生きる、いや生かされている何かの力を強く感じます。
その何かとは、私の場合には、ありがたい仏縁を頂いていますので、仏さまです。
何かを食しないと、生きていけないという人の「業(ごう)」も感じます。
ですから、食も大切な修行です。
禅においては、食も日常であり、大切な修行です。
作るのも、食べるのもです。
何かを食しないと、生きていけないという人の「業(ごう)」も感じます。
ですから、食も大切な修行です。
禅においては、食も日常であり、大切な修行です。
作るのも、食べるのもです。
庶民、下町、そこに息づくのは、江戸情緒です。
これが、江戸時代を分りやすく、私たちの現代人にも「食」を通して身近に感じる所以です。
これが、江戸時代を分りやすく、私たちの現代人にも「食」を通して身近に感じる所以です。
大根をセンロッポン(チェンロープ)に切って、出汁の効いた小鍋仕立てでさっと煮て、小皿にとって一味や七味、粉山椒でも降り振りして、醤油をほんの少し垂らして頂く。
大根の持ち味を、最大限に感じる瞬間です。
大根の持ち味を、最大限に感じる瞬間です。
おでんの大根のように、ぶり大根のように、じっくりあめ色になった大根も美味い。
しかし、さっと出汁で煮た早煮の大根も、その大根本来の持ち味を感じます。
甘いです。
しかし、さっと出汁で煮た早煮の大根も、その大根本来の持ち味を感じます。
甘いです。
江戸の味が、我貧家でも楽しめます。
これには、熱燗もいいし、冷の常温の酒もいい。
もちろん、ビールであつあつふうふうして、喉に流し込むのも悪くはない。
これには、熱燗もいいし、冷の常温の酒もいい。
もちろん、ビールであつあつふうふうして、喉に流し込むのも悪くはない。
こんなのが、これほど美味いのものか、日本人としてのDNAに感謝する瞬間です。
それを、小説やエッセイから、共感、共有、そして、賞味できる喜びに震えることすらあります。
それを、小説やエッセイから、共感、共有、そして、賞味できる喜びに震えることすらあります。
先日の、なまり節の記事も、私流のエッセンスも加えた初夏の楽しみです。
夏が来たと、魂も体も、初夏の到来を共に喜びを分かち合えた気になります。
夏が来たと、魂も体も、初夏の到来を共に喜びを分かち合えた気になります。
そんな中、池波正太郎と検索すると見慣れない言葉を発見です。
「池波正太郎のお母さん流すきやき」です。
私の中では、あまり馴染みのないキーワードです。
エッセイの中に、『味と映画の歳時記』にあったような気もする。
記憶が曖昧です。
「池波正太郎のお母さん流すきやき」です。
私の中では、あまり馴染みのないキーワードです。
エッセイの中に、『味と映画の歳時記』にあったような気もする。
記憶が曖昧です。
とりあえず気になって、そのブログを閲覧しました。
家庭的なあっさりとしたすき焼きの写真です。
これはいいと、その先に、私も好きな「大七のからくち 生酛(きもと)」の写真です。
科学ライターの高野俊一氏のブログでした。
この方もなかなかの池波ワールドをお持ちのようです。
家庭的なあっさりとしたすき焼きの写真です。
これはいいと、その先に、私も好きな「大七のからくち 生酛(きもと)」の写真です。
科学ライターの高野俊一氏のブログでした。
この方もなかなかの池波ワールドをお持ちのようです。
プライベートな長年の問題を解決すべき、一案を投じた後、京都駅近くの本店にやって来ました。
お隣は、第一旭の本店です。
京都ラーメンの大本山の聖地です。
早速、「並・麺カタ」そして、「瓶小」といつものオーダーです。
しかし、厨房に主人の姿はありません。
時間も昼時を外した3時過ぎです。
それでも、店内は途切れることなく人が入って来ます。
お隣は、第一旭の本店です。
京都ラーメンの大本山の聖地です。
早速、「並・麺カタ」そして、「瓶小」といつものオーダーです。
しかし、厨房に主人の姿はありません。
時間も昼時を外した3時過ぎです。
それでも、店内は途切れることなく人が入って来ます。
少し待って麺カタで、出て来ました。
すぐにブログの写真を撮って、麺の硬さを確認です。
やはり、主人と違って、切れが少し悪いですね。
すぐにブログの写真を撮って、麺の硬さを確認です。
やはり、主人と違って、切れが少し悪いですね。
お湯が汚れている場合には、お湯にとろみがついて綺麗にすっきり麺上げが出来ません。
しかし、2時30分頃には、お湯の入れ替えをするのが、忙しい店です。
麺の加減も、お湯は新しくなっているようです。
スープに、麺のゆで汁の味はしていません。
それじゃ、やはり主人と従業員の、麺上げ技術の違いです。
しかし、2時30分頃には、お湯の入れ替えをするのが、忙しい店です。
麺の加減も、お湯は新しくなっているようです。
スープに、麺のゆで汁の味はしていません。
それじゃ、やはり主人と従業員の、麺上げ技術の違いです。
スープも幾分、薄くなっています。
これも麺の湯きりの技術の違いによると思います。
それとも、スープの加減が薄くなった時に、来たかもしれません。
いつもの醤油の強い加減が感じられません。
これも麺の湯きりの技術の違いによると思います。
それとも、スープの加減が薄くなった時に、来たかもしれません。
いつもの醤油の強い加減が感じられません。
どうも、ラーメンの醤油ダレとスープの加減が悪かったようです。
幾分、スープが薄く、その上に量が幾分か多かったのが原因と感じます。
それほどに微妙なものです。
幾分、スープが薄く、その上に量が幾分か多かったのが原因と感じます。
それほどに微妙なものです。
スープの旨みも、昼時に合わせますから、3時過ぎになると、その持ち味が薄く感じます。
少し残念な気分で頂きました。
それでも、口が新福菜館の中華そばでした。
この口をもって、第一旭のラーメンはありえません。
少し残念な気分で頂きました。
それでも、口が新福菜館の中華そばでした。
この口をもって、第一旭のラーメンはありえません。
それだけ、体に染み付いたのかもしれません。
仕事で近くにいた時は、週に3回は来ていましたからね。
モーニングラーメンも充分いけます。
仕事で近くにいた時は、週に3回は来ていましたからね。
モーニングラーメンも充分いけます。
人が多く足を運ぶ理由がそこにあります。
私の場合には、わざわざここに足を運んだということになります。
私の中では、☆の数は多いです。
私の場合には、わざわざここに足を運んだということになります。
私の中では、☆の数は多いです。
値段の多寡によって、美味いものがあるのも事実です。
しかし、それ以上に値段でなく、新しい味やオンリーワンの創造性に☆を与えるべきではないかと感じますね。
しかし、それ以上に値段でなく、新しい味やオンリーワンの創造性に☆を与えるべきではないかと感じますね。
オンリーと言えば、厭離穢土 (おんりえど若しくは、えんりえど)です。
厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)は、欣求浄土と対句しています。
浄土教の用語ですね。
それ以上に、戦国時代好きな方なら、徳川家康の馬印・旗指物でしょうかね。
厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)は、欣求浄土と対句しています。
浄土教の用語ですね。
それ以上に、戦国時代好きな方なら、徳川家康の馬印・旗指物でしょうかね。
それとも、戦火を恐れることなく、指揮を高めたことだけなのでしょうか。
私は、前者の意味と取りたいです。
天下を取るは、我私欲にあらず、国のため、天から仏からの使命とも取れますね。
私は、前者の意味と取りたいです。
天下を取るは、我私欲にあらず、国のため、天から仏からの使命とも取れますね。
戦国時代多く人が、幾多の戦の中で、命をやり取りして来ましたからね
平和を願うのは、多く人の願いでもありました。
平和を願うのは、多く人の願いでもありました。
ここ数日、国際社会の中、アメリカの敵を倒したことが、ニュースで報じられています。
これが終結でなく、新たな報復のテロの引き金を引いたような気がします。
真実を世に問うなら、裁判に訴える方法もあった訳です。
これが終結でなく、新たな報復のテロの引き金を引いたような気がします。
真実を世に問うなら、裁判に訴える方法もあった訳です。
それが事実であったのか、サダム氏の例もあります。
なら、法の裁きを受けるのが、社会のルールと思いたかったです。
なら、法の裁きを受けるのが、社会のルールと思いたかったです。
ラーメンから、こんな国際問題を論ずるつもりはなかったですね。
麺が伸びてしまいます。
麺が伸びてしまいます。
娑婆世界も捨てたものじゃないと思います。
私にはありがたい仏縁を頂いています。
ありがたいことです。
私にはありがたい仏縁を頂いています。
ありがたいことです。
この世の修行は、悪い行いをしないて、いい行いをなすことです。
悪い縁を断ち切り、いい縁を結ぶことと考えます。
悪い縁を断ち切り、いい縁を結ぶことと考えます。
今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、複雑に絡んだ麺のような長い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。