''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

毎年、今日は「喫茶チョ去」です より。

朝から雨降る京都伏見の地です。
冷たい雨です。

 

体調の管理が、難しいです。
インフルエンザも流行っています。
流行に敏感でも、こちらの病気の流行には、乗らないで下さい。

 

2月14日と言えば、巷では、セント・バレンタインディーですね。
景気不景気によって、その売り上げにも影響します。

 

それに、曜日も関係します。
土曜日曜となれば、会社関係の義理チョコの数も減りますからね。
最近は、そうしたしがらみの義理チョコも少なくなっていると聞きます。

 

でも、会社でも、上司には、形だけでもしておくと、いいこともあります。
上司の側でも、やはり大変です。
嬉しい反面、お返しを考えると、いっぱいのチョコは、困るかもしれません。
それ以上に、奥さんが大変かもしれませんね。

 

かと言って、全く部下の女の子にも、チョコすら貰えない旦那は、やはり寂しいです。
やはり、チョコの数は、上司と部下のバロメーター、いえいえ、チョコですから、ベロメーターかもしれません。

 

気遣いしない程度なら、義理チョコもいいかもですね。
でも、身近な上司になれば、義理チョコも嬉しいものです。

 

無いよりは有った方がいいですからね。
複雑な世界です。
男としては、やはり、嬉しいものですね。

 

私のところにも、お友達から、チョコの頂き物がありました。
ありがたい事です。
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チョコと言えば、不二家のハートチョコですね。
手軽な値段と、食べ親しんだピーナッツチョコです。
朝から、コーヒー点てて、10時のおやつに頂いたところです。

 

この年なると、チョコとブランデーか、ウィスキーが、欲しくなります。
子供の頃に食べたウィスキーボンボン味が、忘れられません。

 

「なんじゃ、このへん味」と思ったものです。
でも、何故かもう一度食べたくなる不思議な味わいです。
子供の頃から、呑ん兵衛の素質があったようですね。

 

家では、父も洋酒は呑まない家でした。
ですから、ウィスキーと言うのが、どんな味なのか、全く想像出来なかったです。
唯一、知りえるのが、このウィスキーボンボンでした。
大人になると、こんなものが美味しくなるのかと、不思議な気持ちであったことを、今でも思い出します。

 

今では、あんなまずかったビールが、美味しく感じられます。
今では、あんなツーんと喉に来た日本酒が、たまらない美味く感じます。
子供の味覚は、今でもそのまま、記憶に残っています。

 

子供の頃、父のコップのビールに口を付けた時の苦さは、はっきり覚えています。
子供の頃の味覚と、大人の味覚は違うようです。

 

チョコの味も、変りました。
子供の頃の甘さと、大人の甘さは、大夫違います。
チョコのビターなほろ苦さが、美味いと感じます。
ミルクチョコのタイプは、それほど好みません。

 

毎年、このバレンタインには、禅の言葉、禅語の「喫茶去(きっさこ)」をもじって「喫茶チョ去(きっちょこ)」も、記事に掛けでいます。
「喫茶去(きっさこ)」とは、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の「趙州喫茶去」の公案から来たもののようです。

 

喫茶去と字から見ると、お茶の飲んだらさっさと帰れと言う意味ではありません。
同じ趙州和尚の禅語に、「放下着」(ほうげじゃく)と言うのがあります。
私の好きな禅語の一つです。
どちらも、一見すると違う意味に、解釈されやすいです。

 

「放下着」(ほうげじゃく)と言っても、下着まで脱捨てるような、爽快な感覚を持つような言葉ではありません。
下着ではなく、放下せよ(みんなすっぱりきれいに捨ててしまって)という意味のようです。
人間本来、何も持って生まれ来ない、また、何も持って死ねはしません。
本来無一物です。

 

純真無垢の姿です。
しかし、世俗のまみれ、いろんなしがらみを持って生きています。
それを、茶室に入るときに、きれいさっぱり置いて来て、一人の人間として、主客の交わりをなす。

 

茶を出されれば、それを飲むだけです。
そこには、社会の地位や身分も関係なく、茶を純粋に飲む、それだけです。

 

この一杯に、心の開放があるに違いないです。
そこが茶の湯の精神的な魅力であり、憧れなのかもしれません。

 

その一杯の茶は、現世最初で最後の一杯かもしれません。
いえ、過去世、現世、来世の三世の中でも、最初で最後の一杯かもしれません。
一期一会の一杯として頂く、点てる方も、喫する方も、一回一回が真剣勝負です。

 

時に、増上慢になってしまった気持ちすら、すっぱり捨て去って、一杯の茶を頂くことも、指しているのかもしれません。

 

それに比べて、「喫茶去(きっさこ)」は、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)が、寺にやって来た雲水(修行僧)に、言う言葉です。
「この寺に来たことがあるのか?」

 

あると答えても、ないと答えても、答えは、いつも誰に対しても「喫茶去(きっさこ)」です。
「まあ、お茶でも召し上がれ」という意味のようです。

 

なかなか意味不明でしょう。
瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚が、自らを「主人公」と呼び、自分で「はい」と答えるにも、似ています。
知らないと、ちょっといかれてと誤解されます。
「先生? 先生? 和尚さんが、和尚さんが・・・・」
そんなことにもなります。

 

私も、裏庭のトマトや、路傍の花としゃべっていると、不思議な視線を感じます。
「先生? 先生? かんとうしょうえさんが、変なんです・・・」
と、病院に運ばれそうになりますね。
大夫変モノですからね。

 

趙州和尚の「喫茶去」には、芳賀氏によれば「既に悟りは得ているのか」という意味と示されている。
(我愛読書『禅語の茶軸 一行物』芳賀幸四郎著 淡交社刊 参照)
深い意味は知らず、そこに出された茶は頂きます。

 

バレンタインの今日なら「さあ、チョコでも召し上がれ」という意味で、どうでしょうね。
悟りは、そんなに甘くないと、思います。(今日はここしか笑うとこないですよ。ねぇー、とおるちゃん!!)

 

どうぞ、お一つ、「喫茶チョ去」です。

 

ありがたいことに、私は仏縁を頂いています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中に、ささやかな幸せを見つけます。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすのが、願いです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、あめ(雨)やチョコの甘い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。