''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

常に中道を歩む より。

今日も朝からいい天気です。
気温も春の気温です。
桜もここ数日が満開です。

近くの疎水の桜もやはり、8分咲き、今日の陽気で一気に満開になりそうです。
どこもかしこも、桜が綺麗に咲いています。
通りがかりの小学校に桜が咲けば、入学式のイメージです。

大学では、春の入学でなく、秋の入学の記事が、ニュースや新聞にも掲載されています。
入学式には、桜のイメージが強いです。
学校のシステムが狂うと、その受験生に戸惑いがあります。

人生いろいろと挫折の毎日です。
それが普通と思えば、気分も多少は楽かもしれません。
上手く行かない日も、上手く行く日も、是好日です。
分かっていても、なかなか気持ちを、整理することが出来ないことが多いです。

そう言えば、昨日は週に一度の休肝日でした。
午後9時過ぎに帰宅して、やらないといけない残務を処理して、風呂に入るとすでに12時でした。
風呂上りの一杯は、至福です。
それも、昨日はお休みです。

多少心残りもあるけれど、とりあえず、自分で休肝日と決めれば、守るタイプです。
決して意志は、強くないです。
弱い自分を、自分が一番よく知っています。

出来ないことは決めない。
これが一番大切です。
継続こそ、力です。
続けてこその価値もあります。
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昨日9日の妙心寺のカレンダーです。
「両極端にとらわれず 常に中道を歩む」
お釈迦様の歩んだ道です。

難関苦行をしても、悟りは得られなかったからです。
極端な生活の中に、特別な悟りはなかったと言うことです。
深い意味です。

少し似通っているように感じるのは、洪自誠の書いた『菜根譚』の一節です。
「神奇卓異は至人にあらず。至人はただ是れ常なり」

至人とは、簡単に言えば、素晴らしい人や凄い人でしょうかね。
奇人変人のような奇才を発揮する人は、本当の至人ではない。至人というものは、ごく普通に世間にいるような尋常な人である。
能ある鷹は、爪隠すの例えもあります。

中道を歩むとは、無難な道というのでなく、極端の道を歩まないという意味合いのようです。
つまり、ごく普通の人が出来ないような、極端な修行の中には、悟りは得られないと言うことですね。
過ぎたるは及ばざるが如しのようなものでしょう。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せが落ちています。
道は、近きにありです。

日常の生活が修行です。
仕事をするのも、食事をするのも、就寝するのも、すべて人間の生活すべてが、是修行です。
正しい行いと、正しい考え方に基づいて、生活するということでしょう。
もちろん、正しいという言葉には、仏の道に則した難しい意味合いも含まれます。

それがどんな世界なのか、私のような凡夫には、理解できません。
それでも、日々の暮らしを続けます。
春が来て、桜が咲けば、綺麗と楽しみ、満月が天にあれば、綺麗と楽しみます。
自然の摂理の中に、人も居ます。

居るだけでなく、生活をしています。
雨の日もあれば、晴れの日もあります。
それでも、日々の暮らしに変化はありません。
日常を歩んでいるだけです。
「日々是好日」ですよね。

今ある世界に感謝して、今ある暮らしに感謝する。
何かに比べて、幸せだとか、何かに比べて、嬉しいとか思う気持ちがあるだけです。
常に、何かと対比させながら、暮らすには、三毒が生じます。
隣の芝生は、青いと感じます。

いらいらすれば、心が乱れます。
時に、いろんなことで不安になって、嫌ななることも多いです。
それも、日常です。
すべては、心の持ちようだと思います。

偉そうにそう言っても、やはり、いらいらすることは多いです。
でも、いらいらする回数は、少し減ります。
何かに比べて、幸せでなく、今あることに、幸せと感じれば、日常の暮らしは、明るくなります。

相対的な幸せでなく、絶対的幸せを感じられる。
そんな「幸せ」を見つける。
そこに、極端に幸せでなく、日常のささやかな幸せがあります。
それを見つけられたことに感謝しています。

ありがたい仏縁のお陰です。
中道を歩むという意味は深いです。
ありがたいと感謝する暮らしは、心を豊かに穏やかにしてくれます。
安穏に暮らすのが一番です。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らす、それが夢です。

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、中途半端な中道の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます