''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

五月のカレンダー「一撃忘所知」の禅語 より。

今日から5月です。
それも、1日は、八十八夜とカレンダーに記されています。

 

♪夏も近づく、八十八夜~
あの八十八夜です。
八十八は、末広がりの8が重なりあう演技のいい数字ですね。

 

いつものように、カレンダーを捲ります。
5月は、一撃忘所知(いっきゃくしょちをぼうず)と書かれています。
鎌倉・円覚寺派管長、横田南嶺老師の書と竹の絵です。
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竹の墨絵は、見事です。
筆さばきに迷いがないのが、やはり修行を積まれた禅の老師さまでしょうからね。
それにして、一撃忘所知(いっきゃくしょちをぼうず)とは、なかなか読めないです。
禅独特の言葉です。

 

意味も書かれています。
箒(ほうき)で掃いた石が竹に当たったその音で、瞬間一切の執着妄想を忘れ去り、大悟した。
禅匠の心境を述べた頌の一句と解説されています。
出典は、『景徳伝灯録十二』と記されています。

 

それで、竹の絵なんですね。
それにして、掃除している時に、箒に石が当たって、との音を聞いて、悟られるとは、凄いですね。
私などは、頭に石があっても、そんな大悟を得ることは出来ません。

 

悟りとは、徐々に得ると言う北宗禅と違い、南宗禅はやはり突然氷解するものなんでしょう。
それまでに、常に四六中、考えを巡らせていることは、当然の事と思われます。
ある日、突然何かの拍子に、それを大悟する。

 

かの白隠禅師も、確か人様の庭先で、不審者と思われ、箒で頭を叩かれた。
その時に、大悟されたと読んだことがあります。

 

その少し前にも、夕刻寺の鐘の音を聞いて、悟られたと思いきや、正受老師にその悟りの境地を語られると、少し違っていたこともあったと聞きます。
そのヒントを得て、今度は大悟されたと言うことになります。
そんな話を聞くと、禅の修行者は、突然、トランス状態に入るみたいですね。

 

私は、いつもぼーとしていることが多いですね。
いろいろと考えないといけないと思いながら、何かそれらの事から逃避しているのかも知れません。
やるべきことがあるはずなのに、なかなか前に進めません。
ジレンマを感じています。

 

でも、そんなストレスの中に、何も考えない時間も大切だと感じています。
偉い人なら、世俗を忘れる時間が必要でしょうね。
そんな時、お茶はいいのかもしれません。
茶室に入って、一服の茶を喫す。
無心の中に、何か思うところがあるのかも知れません。

 

現代は、心の時代とも言われています。
心のストレスから、開放されることが、何よりの大切になりますね。
私のような凡夫には、なかなか上手に行きません。
その影響が、ぼっーとしていることに現れているのかも知れないです。

 

オンとオフの切り替えが、上手出来ていません。
世間も、今日と明日は、心ここに在らずでしょうね。
すでに、ゴールデンウィークの気持ちになって、仕事にも、オン出来ないことだと思います。

 

懐具合がよければ、優雅に過ごせるのでしょうがね。
貧乏人は、暇もゆとりもありません。

 

せめて、心だけでも、自由に開放したいです。
心を無にする。
無心になって、今の存在すら、感知しないところまで、欲を捨てきれば、大悟するのも知れません。

 

なかなか欲を捨て去ることが出来ないです。
やはり、凡夫のサガです。

 

竹だけに、上下の節もあります。
そこから、なかなか抜け出せない。
その中で、ささやかな幸せを見つける術しか、心の開放はないです。

 

上を見ても、下を見ても、キリがないです。
自分の分にあった暮らしが、そこにあるだけです。
目線を下げて、野にある花に、安らぎを求め、天にある月に、安らぎを求める。
今あることに、感謝して暮らせることは、何よりありがたいです。

 

ありがたい仏縁を頂けていることに、感謝する。
そんな感謝ある暮らしは、少しだけ心を豊かにしてくれます。
ありがたいことです。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、不意の一撃くらった話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。