テレビも朝から画面の角で、中継しています。
昼頃まで、見えるみたいですね。
これを逃れば、100年近くは見られないと聞きます。
昼頃まで、見えるみたいですね。
これを逃れば、100年近くは見られないと聞きます。
太陽は偉大です。
生きとし生けるものに、太陽の恩恵があります。
太陽なくして、人も生物も生きることは出来ません。
みんな生きているのです。
生きとし生けるものに、太陽の恩恵があります。
太陽なくして、人も生物も生きることは出来ません。
みんな生きているのです。
♪ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ
♪ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ
生きると言えば、楽しいことばかりじゃない、悲しいこともあると諭しています。
生きると言えば、楽しいことばかりじゃない、悲しいこともあると諭しています。
そんな時でも、太陽は燦燦と、地上に光を与えてくれます。
太陽の偉大なことです。
太陽の偉大なことです。
その恩恵は、地上に生きるすべての生物にも、与えられます。
♪ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
♪ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ
仏教的な世界観すら感じる、いずみたく氏の作詞の世界です。
「おけら」と言えば、懐の寂しい状態です。
「からっけつ」とか「すかんぴん」などという事もあります。
「すかんぴん」とは、漢字で書くと「素寒貧(すかんぴん)」と書くようです。
本当に貧しています。
「からっけつ」とか「すかんぴん」などという事もあります。
「すかんぴん」とは、漢字で書くと「素寒貧(すかんぴん)」と書くようです。
本当に貧しています。
私たち世代には、「すかんぴん」と言えば、1984年に公開の吉川晃司のデビュー作『すかんぴんウォーク』です。
冒頭、吉川晃司さんが、海から泳いでくるところから始まります。
大胆な演出です。(主題歌は『モニカ』ですよね)
本当に体一つの「すかんぴん」から始まります。
冒頭、吉川晃司さんが、海から泳いでくるところから始まります。
大胆な演出です。(主題歌は『モニカ』ですよね)
本当に体一つの「すかんぴん」から始まります。
清貧と言えば、茶の湯の世界では、宗旦のイメージです。
利休居士の政治との関わりあいからの教訓でもあると感じます。
父は少庵であり、母は利休の娘お亀であるとされています。
私が書いた過去のブログの記事の中に、「おかめにおもいおく」という利休居士の最後の手紙がありました。
利休居士の政治との関わりあいからの教訓でもあると感じます。
父は少庵であり、母は利休の娘お亀であるとされています。
私が書いた過去のブログの記事の中に、「おかめにおもいおく」という利休居士の最後の手紙がありました。
利休の父としての姿がそこにあったことに、人間しての利休の姿が垣間見れました。
有名な千利休の辞世の句 人生七十~ とは別物です。
母の亀から受けた宗旦は、本当の意味で侘び寂びの「清貧」を生涯として、「乞食宗旦」とも呼ばれます。
有名な千利休の辞世の句 人生七十~ とは別物です。
母の亀から受けた宗旦は、本当の意味で侘び寂びの「清貧」を生涯として、「乞食宗旦」とも呼ばれます。
まさしく「おけら」状態にあえて身において、茶の湯を究めようとされたのでしょうね。
先日にも、『千利休研究』桑田忠親著・東京堂出版を、目にしました。
時々、この書物の中に興味が注がれます。
この書物の中に、お亀への手紙の存在を知りました。
先日にも、『千利休研究』桑田忠親著・東京堂出版を、目にしました。
時々、この書物の中に興味が注がれます。
この書物の中に、お亀への手紙の存在を知りました。
その手紙を探しておりました。
それが、利休の命日に記事として上記のブログに記しました。
やはりあったのかと、思い知ったわけです。
それが、利休の命日に記事として上記のブログに記しました。
やはりあったのかと、思い知ったわけです。
利休居士の手紙は、多く存在しています。
私のブログでも、「鯛の文」やら、与一殿と織部殿最後の見送りの礼、細川の家老松井に宛てた最後の文も、目の前に見たとき、感慨深いものを感じました。
多くの文の中、利休のサインの「オケラ判」とか「ケラ判」と呼ばれるサインがあります。
サインが、「おけら」の形に見える所からそう呼ばれます。
不思議なサインですね。
「利休」とサインしているものもよく見ます。
真筆の鑑定において、時代の特定を証明には、貴重な資料となりますね。
私のブログでも、「鯛の文」やら、与一殿と織部殿最後の見送りの礼、細川の家老松井に宛てた最後の文も、目の前に見たとき、感慨深いものを感じました。
多くの文の中、利休のサインの「オケラ判」とか「ケラ判」と呼ばれるサインがあります。
サインが、「おけら」の形に見える所からそう呼ばれます。
不思議なサインですね。
「利休」とサインしているものもよく見ます。
真筆の鑑定において、時代の特定を証明には、貴重な資料となりますね。
宗旦の清貧のイメージと、利休の手作りで、宗旦の愛蔵品、割れた花入れ「園城寺」のイメージも、ぴったりです。
長次郎の三代目ノンコウが、その花入れ「園城寺」から、水が漏れているのも不思議そうに、尋ねて会話をしている姿も想像出来ます。
長次郎の三代目ノンコウが、その花入れ「園城寺」から、水が漏れているのも不思議そうに、尋ねて会話をしている姿も想像出来ます。
清貧という言葉と、侘び寂びは、同じ方向にあると感じます。
禅の高僧が、特に乞食のような暮らしをしていることがあります。
そこまで、清貧にする必要があるのかは不明ですが、欲を排除したところに、何か見えない幸福感があるのでしょうね。
禅の高僧が、特に乞食のような暮らしをしていることがあります。
そこまで、清貧にする必要があるのかは不明ですが、欲を排除したところに、何か見えない幸福感があるのでしょうね。
今や飽和飽食の時代です。
働きたくても働く場所もなく、失業者の多い中、働けるのに、働かずにほどこしを受けて暮らしていることに、何も感じない人も多いのも事実です。
働きたくても働く場所もなく、失業者の多い中、働けるのに、働かずにほどこしを受けて暮らしていることに、何も感じない人も多いのも事実です。
天に太陽が昇り、一日がある。
するべきことをなして、天命を待つと言うのもあります。
それでも、一日です。
するべきことをなして、天命を待つと言うのもあります。
それでも、一日です。
本当に困っている方に、また東日本大震災で被災された日常を取り戻せていない方々に、救いの手を伸べて欲しいです。
日々の暮らしの中で、ささやかな幸せがあります。
ありがたいことに、私は仏縁を頂けています。
ありがたいと感謝して暮らさせて貰っています。
生きているのでなく、生かして貰っています。
ありがたいです。
ありがたいことに、私は仏縁を頂けています。
ありがたいと感謝して暮らさせて貰っています。
生きているのでなく、生かして貰っています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、内容のないすっからかんの話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。