''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

8月の禅のカレンダー「無寒暑」より。

暑いですね。
暑いのは、気温ばかりではありません。
ロンドンのオリンピックも熱い様子です。

 

メダルの獲得に一喜一憂する姿は、時にそんな精神状態じゃ、メダルには届かないと思うことがあります。
勝ちたい勝ちたいばかり、自分の姿がそこにはありません。
メダルは、後から付いてくるものだとも感じます。

 

何年間も毎日地獄のような特訓の中、寝ても覚めても、その競技の事ばかり考えているのですから、メダルを後一歩で取れなかったのは、悔しいと思います。
実感は出来ませんが、人としてよく分かります。

 

でも、メダルが取れなかったことばかりの悔しさを、済んでしまった過去と思い、気持ちを前に進めないといけないと思います。

 

メダルに、未練たらたらの姿と、目指す向上心とは、一致しません。
あなたは幸運にも、オリンピックに出られ、もう少しでメダルという所までいけた。
これをラッキー問わずして、何とすると思います。

 

あなたがオリンピックに出たことによって、どれほどの方が涙をのんだのか考えれば、皆さん同じ悔しさを感じているはすです。
欲張りです。

 

精一杯やって負けたら、それも結果として捉え、次のオリンピックに目指すくらいの気持ちが必要です。
固執することが、試合に負けた原因です。
固執するから、力が精一杯でないとも言えます。

 

予選で敗退した選手も大勢います。
それも仕方のないことです。
勝負の世界ですからね。

 

結果が出た以上、過去のこだわっても仕方がないと、言ってやりたいです。
特に柔道の選手に多いです。
「道」と付いているからには、精神世界があるはずです。
それが、見えないのが、柔道でなく、JYUDOになってしまっています。

 

相撲の決勝戦で負けたからと言って、テレビ中継の前で、ワンワン泣く力士は居ないはずです。
ですから、メダルが取れなかったからと言って、テレビ中継で、ワンワン泣くのは、大変みっともないです。
道という意味の理解されていない選手には、メダルの方から離れていく気がします。

 

実力があるから、結果が付いてくるとは限りません。
やはり、日頃の精神修練の成果が、こうした大舞台では現れると思います。
それも、人の持って生まれた運です。
この悔しさを静かにバネにして、メダルを獲得した選手も今回のオリンピックには、たくさんおいでです。
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いよいよ、暑い8月に突入です。
いつもの禅のカレンダー8月は、「無寒暑」(むかんしょ)です。
天龍寺派管長 佐々木容道老師の書です。

 

大意
寒い時には寒に徹し、暑い時には暑を徹する事により。寒暑を超越し自らの克服を計る禅僧の境地。
(『碧巌録四十三』)

 

うーん、深いですね。
心頭を滅却すれば火もまた涼しの精神でしょうね。
禅の達人の心境です。

 

私は、まだまだダメですね。
夏は暑いし、冬は寒いです。

 

そう言えば、茶聖・千利休居士の『南方録』の一節が浮かびます。
(南方録が偽書と言われているのも存知ています。でも、利休居士っぽさを感じますね)

 

「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにもあたたかなるように」

 

利休居士も、参禅されて大悟されたお方、言い分が違いますね。
この辺が、禅の面白さです。
真逆のことも、これもまた真です。

 

厳しい修行の成果、気づかれたわけです。
素人の私の考えでは、「無寒暑」でも、「有寒暑」でも、同じことだと言えます。
そんなことにこだわること自体無意味です。

 

厳しい修行をして暑い寒いを耐えてるのも、そんな事お構いなしに、暑いと言っては、エアコンのスイッチを入れ、寒いと言ってエアコンのスイッチを入れても、本来人間が過ごし易い状態、もっと言えば、精神の拠り所の安穏な心の状態であれば、それで同じです。

 

それなら、私は利休居士の言われるように、夏は涼しく、冬は暖かく過ごします。
それが、私の心の平穏です。

 

かと言って、夏と言いながら、「寒い」と言葉を発する程の涼しさも、冬と言いながら、「熱い」と言葉を発するほどの暖かさも必要ないです。

 

暑い夏の盛りでも、玄関に打ち水して、エアコンなど使わずに、貧家に風を通す程度の自然の風で十分涼やかです。
むしろ、この方が好きです。
冬も同じ程度です。

 

私は、両極端な道は、歩みません。
その中道を進みます。

 

つまらないこだわりを持つと、そこには欲が生じます。
欲は、まさに貪りの心の三毒です。
心の三毒を有すると、幸せになれません。
心の安穏なくして、幸福はないと思います。

 

金銭も名誉も誰でも欲しいです。
そら、私も欲しいです。
南方録にあるように「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事なり」と常にと思えば、どんな状況にあっても、幸せを感じます。

 

貧家の長屋住まいですから、雨が漏らぬ程度の住まいですから、そこは利休居士の言われを守っています。
食事も飢えぬ程度には暮らしています。
時々の晩酌は、セーフでしょうかね。

 

しかし、何事も固執しないのが、幸せの道なれば、大きな家に暮らそうが、小さな貧家に暮らそうが、あまり変わりはありません。
心の持ちようの問題です。

 

金持ちだからと言って、日に10食は食べられません。
むしろ病気になります。

 

本当のお金持ちというのは、食事が質素と聞きます。
今の天皇陛下の食事も、質素な食事と聞きます。(食材は最高級の物でしょうけどね)
お体の為、健康維持の為に、努められていると聞きます。

 

毎日ご馳走では飽きます。
温かいごはんに、温かい味噌汁、そして、野菜中心や魚中心の食事は、毎日でも頂けます。
そして、香の物です。

 

俗に言うお惣菜ですね。
またに贅沢するから、特に美味しく感じるのですね。

 

幸せの極意も、この当りにあるのかも知れません。
今思えば、私の質素の暮らしは、数寄者にとっても理想系かもしれません。(そう思っても、本人としては、なかなか微妙です)

 

日々の暮らしの中に、幸せを見つけます。
ありがたいことに、私は仏縁を頂いています。
ありがたい感謝して暮らしています。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、幸せの無感症の話に、お付き合い下さいまて、心よりお礼申し上げます。