''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

京都伏見の地蔵盆 より。

昨日、今日辺りが、地蔵盆のピークでしょうね。
京都は、地藏さんが多いと言うのを、昨日の記事でも書きました。
小さな町内で1つあります。
中には、家の地藏さんまであるお宅があります。

そんな中、町内のお地蔵様には、曰くがあります。
その昔、近くにある伏見の疎水を掘る工事中に、お地蔵さんが多数見つかったと聞きます。
同じようなことが、京阪電車の軌道工事の時にも、多くの石仏やお地蔵さんが見つかったとも言われています。

この伏見の辺りは、平安の世には、極楽寺と言う大きな寺院があったと聞きます。
近くには石峰寺と言われる石仏のある寺院も有名です。
とりあえず、この辺りには、石仏やお地蔵さんが多数あったと思われますね。
極楽寺は、現在・宝搭寺と呼ばれる大きな寺院が、その遺構の一部です。

伝承によると、豊臣秀吉公の命により、こうした石仏が疎水あたりに集められたようです。
多分伏見城築城の石材が足りなかったので、それらを利用するためではなかったのでしようかね。
その場所に京阪電車や疎水が、後に築かれたということになります。

話を戻して、その疎水工事の時に、発見された地藏さんがもとあったこの町内に戻りたいと言われたと言います。
石のお地蔵さんがしゃべると言われることはないと思われるかも知れませんが、私は信じますね。
口数は少ないでしょうが、確かに石のお地蔵さんですから、口は硬いですよね。(笑)

わが郷里播州の家近くでも、同じ伝承があります。
お祀りされていた観音様が盗まれたと言うので、後になって、その場所から20kmほど離れた場所藪で放置されたあった。
その折、通りすがりの駕籠屋に、「町内に連れて帰って欲しい」と声をかけられて、戻って来たという伝承が残っています。

不思議なことがあります。
町内のお地藏さんは、古いもので平安時代のものでないか、とお見受けします。
自称・石仏ハンターとして、この地に下だけを埋められたいたお地蔵さんだと思いますね。
旧の街道筋ですので、多くの方がその前を通りすごされたと思います。
奈良に行幸した帝も、当然太閤秀吉公も、徳川家康公も、戦国の武将もこの通りを通られたはずです。

家の近くには、道元禅師が一番最初の寺院・観音導利興聖宝林禅寺(興聖寺)を作られてお住まいでしたので、多分道元禅師も、路傍のお地蔵さんに手を合わさせたかもしれません。
日像菩薩様も、近くでおいでになっていたので、やはり、地蔵大菩薩に手を合わされたことでしょうね。

そういう可能性を秘められています。
何やらご利益が有りそうです。
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伏見の地蔵盆には、この町内の関係者の位牌も並べます。
きれいにお飾りがされています。

オンカカカビオンマエソワカ地蔵尊真言です)

何やら霊験あらたかです。
もちろん、伏見の地藏さんには、色が塗られています。
今年は、あっさりした顔に化粧です。

私ももう一人の方と一緒に、化粧されたお地蔵様を、安置させて頂きました。
下の台座は、木製です。
型に合うように、くりぬかれています。
そこに安置するようになっています。
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この日は、地蔵盆ですから、お地蔵様にも膳が添えられています。
手前には、赤飯ですね。右には汁ものお麩ですね。
あと野菜、乾物、それにトマトのサラダ付です。
ハレの日の食事です。

30十分ほど、お寺さんに来て頂いて、法要の後、軽く発泡酒やつまみが出されました。
町内の一番の行事です。
町内規約の一番最初に、このお地蔵さんをお祀りすることが、記されています。
凄く歴史のあるお地蔵さんに、私もご縁があったと喜んでいます。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたいお地蔵さんのお蔭です
感謝して暮らされて頂いています。
ありがとさんです。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、子供のいない大人ばかりの地蔵盆の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。