''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

厚切り豪華なハムカツから始まる物語 より。

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朝からやはり寒いです。
師走になって、空気の冷たさも強く感じます。
年の瀬でしょうね。
バタバタする感じもする中での、冷たさは堪えます。

先日、スーパーで厚切りのハムカツを購入です。
子供の頃の懐かしいハムカツは、ペラペラなハムに衣をまとって揚げただけのものでしたが、なかなか美味いかったです。
赤いウインナーのウィンナーカツも、大好きでしたね。
あの頃は、ハムと言っても、周りが赤いハムのハムカツが定番でしたね。

購入したハムカツは、少し分厚いです。
子供の頃のハムのCMが懐かしいです。

わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい(丸大ハム)

子供心にも、あの丸大ハムのCMの厚切りハムに憧れましたよね。
登山に訪れた親子が、ナイフに刺した厚切りのハムを焚き火で焼いて食べるシーンです。
厚切りハムなら、ステーキにしても素敵ですよ。*1

私の今月のサブテーマは、「赤穂浪士」です。
赤穂浪士に、ハムは関係ないだろうと思うことなかれです。
ハムカツのカツが関係します。

吉良上野介の妻は、ご存知上杉の姫・富子さまです。
この方の兄上・綱勝(つなカツ)様が、妹の嫁ぎ先の吉良家を訪れた直後に、初病してから7日後に逝去された。
吉良の毒殺が、疑われた位です。

吉良の殿様は、名君です。
それも源氏の正統なお血筋です。
そのような卑怯な振る舞いされないと心得ます。

綱勝殿は、生来病弱で万治年中にも危篤になったことがあると、記録にあるようです。
それにして、特をしたのは吉良殿でした。

綱勝殿が、寛文4年(1664年)、嗣子なく、世嗣も指名しないまま急死されます。この時点が子はいませせん。ですから、本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹富子が嫁いでいた吉良上野介義央の長男・上杉綱憲末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名存続を許された。
この為、石高は30万石から15万石に半減された。
(ウィキペディア参照)

これが、吉良家の断絶の序章になった訳です。
上杉家から、相当恨みを買っていたことは、推測されます。

吉良にとっては、上杉は金づると言えました。
しかし、30万石が15万石に、半分になっても、まだ15万石の大大名です。
その上、娘たちを上杉の養女にして、島津、津軽、酒井の家に嫁がせています。

また、実の孫であり、上杉の息子を、吉良の養子に迎えています。
これが、左兵衛義周です。

討ち入り後、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の沙汰によりに、「不届き」として改易の上、信濃諏訪藩にお預けを言い渡されることになった。
なお、同日に赤穂浪士たちが切腹している。
ここで、喧嘩両成敗の結末になります。

その後も、宝永元年6月2日(1704年7月3日)には実父・綱憲が死去、次いで8月8日(9月6日)には養母(祖母)も死去と、身内の死が重なり心労が重なり、宝永3年1月20日(1706年3月4日)死去した。享年21歳であった。(ウィキペディア参照)

上杉家にとっては、まさに吉良は不吉な家柄であったとも言えます。
かと言って、嫌(きら)いにならないでね。*2
上杉家にとっては、どちらにしても納得できない出来事であったと言えます。

上杉の臣なら、カツを見れば、きっと綱勝殿を思い出されるはずです。
無念であったろうね。

その意味では、浅野の旧臣と同じだったかもしれません。
本当の敵は誰だったのでしょう。
歴史の闇です。

厚切りのハムカツは、ご馳走です。
たっぷりカイワレ大根を添えました。
一節では、桂昌院の兄弟・本庄家の家紋は、もともと八百屋の出自という事で、大根の葉の家紋であったと、講談で聞いたことがあるような気がします。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁に感謝しています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、自分勝手(カツて)な話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。

*1:^O^

*2:^O^