''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

湯布院のお湯に漬かって温まろうかな より。

今日は、10日ぶりのオフにしてみようと思います。
とはいえ、朝から発送手続きをしております。
集荷の猫さんが来るまで、しばしブログ三昧です。

昨晩の晩酌は格別でした。
白サバフグ常夜鍋にしました。
もちろん、冷凍していたトラフグのヒレを使って、ヒレ酒も3杯頂きました。
もともとも毒のない白サバフグですが、身の食感は、まさしくフグのようです。

トラフグは、別の機会のお楽しみにしておきます。
晩酌に入る前に、風呂で体を温めました。
100円ローソンで購入した温泉シリーズ詰め合わせの浴用化粧料です。
早い話、入浴剤です。
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昨晩は、湯布院のお湯でございました。
白濁した濁りの湯です。
気分だけです。
疲れて冷えた体、特に京都独特の底冷えで、足元が冷えてしまいました。
足元が温まります。

何やら足が軽くなりました。
この12月は私のサブテーマは、「赤穂浪士」です。
足が軽いと言えば、江戸時代では、足軽です。
武士の格好はしていますが、正式な意味では武士ではありません。
その辺が複雑です。

戦にあっては、戦場で長槍をもって最前列で戦う戦闘員です。
太刀や刀は差していないです。
敵の首を取る脇差しは、携えていることもあります。
防御の兜も、胴巻と脛当だけの軽微な戦支度です。
ですから、警備が軽いので、足が軽いと足軽です。

戦国にあっては、必要な戦闘員ですが、太平の世となると、仕事もなくなります。
基本、一代限りのお役です。
しかし、代々家に使えます。

基本的な格好は、武士ですから、刀を携えています。
身なりは、貧相です。
足軽の給与は、3両2人扶持が多いと言えます。

一番下の給与は、3両1人扶持です。
俗に、「サンピン野郎」と呼ばれます。
3両1人扶持で、3と1(ピン)ですから、そう呼ばれることがあります。

赤穂浪士の中にも、一人この足軽が参加しています。
寺坂吉右衛門ですね。
討ち入り当時38歳でしたが、唯一、生き残って83歳の天寿を全うしています。
一行が、旧主君・浅野内匠頭が眠る泉岳寺に来る途中で、居なくなったという事になっています。

俗に、内蔵助の密命を受けて、浅野本家お預けの大学殿に、討ち入りの報告をするために、使者としても密命を受けたとも言われています。
真偽の程はわかりません。

実際に、大学殿に遭ったかは、不明です。
浅野本家でも、厳重に警備されていますから、会うことは基本不可能です。
しかし、曹渓寺にある寺坂の墓石には、大学と思われる人物に報告したと記載が示されています。

また、講談や浪曲では、妻の瑤泉院に報告するために、浅野三次家の下屋敷に向かったという話が多いですが、これも史実の程は変わりません。

講談や浪曲では、瑤泉院が直接逢って話なりとも聞きたいと申し出るのですが、家老などが軽輩の者故、直接お言葉をかけることはできないと、申し出を却下します。
それでも、どうしてもと、直接逢って言葉をかけるシーンは、涙をそそります。

でも、実際の出来事なら、取次はしません。
討ち入りは、天下の謀反です。

それを浅野三次家が、加担したとなればお家も連座して罪咎を受けます。
ですから、取次はしません。
それが有能な官吏の懸命な処置です。

忠義の心はありません。
後に、浅野三次家も、嫡子不在に付き、お家は断絶することになります。
浅野本家として、浅野赤穂家、浅野三次家、二つの支藩がなくなったことになります。

大名家も不安定な存在です。
嫡子が居ないと、家はとり潰れさます。
ですから、側室などを置いて、その男子の血を存続されるのは、大名家の勤めです。

大名も辛いが、一番身分の軽い足軽も辛いです。
寺坂吉右衛門は、足軽ですが、吉田忠左衛門配下の足軽です。

よく、寺坂を吉田の家来と記されている書物が多いですが、これは間違いだと思っています。
ただ、もともと足軽の寺坂に関する記録がほとんどありません。
真偽の程は、まだまだ不明です。

ただ、200石の足軽頭の吉田忠左衛門に、3両2人扶持の給与が払えるとは思いません。
確かに、足軽頭で200石ともなれば、郎党として家来を持つこともあります。
ただ、その場合には、職務は付きません。
吉田の家の家人という扱いです。

しかし、寺坂吉右衛門は、吉田配下の足軽という身分です。
これは列記とした浅野家の足軽です。
ですから、又物と呼ばれる陪臣ではありません。

仮に、寺坂が吉田の家来であったのなら、討ち入りには参加していません。
家老の内蔵助の石高は、1500石です。

家来も20人以上は、いたはずです。
その家老の家来は、討ち入りに誰も参加していません。
また、200石以上の浪士の家来も誰も参加をしていません。

また仮に、陪臣が討ち入りに参加したとなれば、浅野家臣は、又物の手を借りねば、討ち入りも出来ないのかと、世間の笑い者です。

陪臣が、主人の主人に対して、忠義を尽くす義理はありません。
主従の交わりは、そうしたものです。

ですから、寺坂吉右衛門は、身分は低い足軽なれど、浅野の家臣であったからこそ、吉良け討ち入りに参加した。
また、後世に正しい真実を残すメッセンジャー寺坂吉右衛門を、討ち入り後、一人生かしたと思います。

寺坂吉右衛門のその後については、吉田忠左衛門の娘・さんが、姫路の本多家の伊藤十郎太夫治興に嫁いでいます。(晩年、伊藤八郎右衛門と名乗ります)
ここで一緒に生活をしています。

吉右衛門は、子供頃両親を早く失い、吉田忠左衛門が下で暮らしていました。
ですから、嫁いだ娘・さんとも旧知の間柄であったと思われます。
もしかしたら、兄弟のような感覚であったかもしれません。

また、後に十郎太夫への吉田忠左衛門の書簡が発見されているようです。
十郎太夫吉右衛門の処遇を託したことになります。

姫路藩本多家が、村上藩、古河藩に移転した時も、一緒に行動を共にしています。
59歳の時に、伊藤家を去ります。
多分、十郎太夫が、寛保元年(1741年)4月23日に逝去していますから、代替りのこれを境に伊藤家を去ったと思われます。

この後、江戸麻生曹渓寺の寺男となりますが、どうしても断れなくて、晩年三万石の山内主膳の仕えます。
高齢ですから、山内家を退出した後、また、曹渓寺の寺男に戻り、延享4年(1747年)10月6日83歳で没し、ここで葬られたことになります。

曹渓寺と泉岳寺は、歩いて20~30分ほど距離であると聞きます。
もし、討ち入りの途中で蓄電したのなら、こんな近くには住まないと思います。
時々、泉岳寺に詣ったことだと思うと、その心中はどんなものだったのでしょうかね。

討ち入り後、大目付仙谷伯耆守との話は出来ています。
「軽輩の無者ゆえ、是非に及ばない」とした吉田忠左衛門言い分から、書類の上から、寺坂を外したように思えます。
ですから、犯罪者として追っ手が掛からなかったようです。

ただ、江戸に帰って来て、大目付に自首したようですが、既に事件として終了していまいすから、再吟味はされなかったことになります。
一度収まった「義士」としての結果を、幕府が蒸し返すことは避けたかったと思います。
義士として、助命嘆願することと、武士として切腹されたことの、シコリは未だのに残っています。

寺坂は、『寺坂吉右衛門筆記』や『寺坂信行私記』などを残していることになっています。
ただ、孫の信成という人物が編集したと言われています。
しかし、あの寺坂が、吉良家討ち入りの事を、家族にペラペラと述べたとは思えません。
孫の信成が、高名な赤穂浪士の力を借りようと、聞伝えしたりした物をまとめたように思えます。

吉良家の討ち入りに、手に手に松明を持って討ち入ったなど、ありえようもないことが、誠しなやかな記載されている点からすれば、寺坂の記憶違いと記されている書物も多いですが、あの大事件の出来事を間違えるはずもないと思います。

こうした虚実の部分が、これらの寺坂の討ち入り参加を疑問視される結果になったと言えます。
寺坂吉右衛門信行も、赤穂浪士の一人として、主君浅野内匠頭の仇討ちに参加したことは、事実のように感じます。
どのような思い出、残りの人生を過ごしたものか、考える所が多いです。

難しいことは考えず、熱い風呂に入って、晩酌に熱燗を頂きたいです。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁のお蔭です。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、すっきりしない濁った話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。