''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

沢庵を肴に、熱燗徳利といきました より。

空気が、寒いです。
日没となれば、気温もぐんと下がります。
何やら、肌寂しい気持ちです。
と言っても、そちらの事ではござりません。

熱燗徳利の肌寂しさです。
すでに、食事を済ませて帰宅することが多いです。
晩酌タイムと言っても、腹に貯まるものは、少し控えています。
豆腐や野菜、そしてマロニーくらいです。
ここに、野菜たっぷりの肉団子が入るのが、いつもの常夜鍋のハーフサイズです。

時に、特売の刺身や焼き魚も食します。
酒に合うのは、やはり、魚が多いです。
一升瓶片手に、茶碗酒の域には、まだまだ届きません。
もう少し年齢の積み重ねが必要です。

台所で、肴を用意している間に、レンジで燗酒です。
昔は、鍋にお湯を沸かして、そこに徳利を入れて燗していましたが、今では早く呑みたいとレンジで燗しています。
少しコツが必要です。
そうしないと、満遍なく燗がされません。

やはり、上燗と言うのが如何に難しいのか、分かります。
上燗を付けてくれるおでん屋のおやじは不要です。
酌のしてくれる美人のタボも要りません。
慰労の一人でする手酌でいい、いえ手酌がいいんです。
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この日の晩酌の肴は、沢庵の漬け物です。
葉っぱの部位も、細かく刻みました。
なかなか美味いです。
沢庵で燗酒が呑めるのは、贅沢です。

何だ沢庵ではありません。
貧家な長屋暮らしでは、ほんにご馳走です。

長屋暮しと言えば、それこそ、落語の「長屋の花見」ですね。
一升瓶に番茶を入れて、黄色い沢庵なら「卵焼き」で、白い沢庵なら「かまぼこ」と来れば、こりゃ知恵ですね。

楽しい知恵で、長屋でも花見が出来ると行けば、こりゃ酔狂ながら楽しいです。
肴の小鉢もいろいろと楽しめます。
酔狂繋がりで、小鉢百珍でも、やりましょうかね。

沢庵の歯ごたえが、燗酒を甘く感じさせます。
サクサクと妙にリズミカルで、いいですね。
鼻腔に抜ける香り高い所が、沢庵のいいところです。
まさしく、香の物と呼ばれる所以です。

それ以上に、沢庵の切り口がいいです。
活人剣の太刀捌なら嬉しいです。
人を斬らずに生かす剣です。

提唱者の柳生但馬守宗矩が、沢庵の教示を得て「剣禅一如(剣禅一致)」を提唱されています。
精神も体も、共にあることを示されているのでしょうね。
剣の腕前だけでは、最後の壁を破る事が出来ないのかもしれません。

吾は、「酒肴一如(しゅこういちにょ)」を提唱しましょうかね。
如の字が、徳利と猪口に見えます。
まだ呑んでいませんよ。
「しょーさん、おひとつどうぞ」ってね。

もともと、一如(いちにょ)と言うのは、絶対的に同一である真実の姿(実相)、という意味の仏教用語のようです。(ウィキペディア参照)
諸法実相ですよね。
法華経では、無量義経説法品第二では、実相とは「是の如き無相は相なく相ならず 相ならずして相なきを名づけて実相とす」と説かれています。

少し難しくなって来ました。
酒の肴の話には、限界です。

猪口に酒を注ぐ、それは有です。
その猪口を呑み干す、すると、それは無です。

しかし、その違いは、猪口に酒が注いであるか、ないかの違いです。
無であって、空ではありません。
空は、無ではなく、有と無の双方ある器、自分的には、ちょうど猪口みたいなものかと思っています。
妙と法の表裏一体の関係でもあるように思えます。

そんなことを言うと、早く猪口の酒を無にして、空したくなります。
食う(空)ではなく、呑む(有無)です。
沢庵を食って、猪口を空にします。

こんな戯言で、仏の一切衆生を救う大願を念じています。
額に汗して、労働して、疲れた体に、精神的な慰労の酒を、体内に取り込んで、明日への活力にすると言う事を、実践しないといけません。
これが、平穏無事に暮らすことに繋がると思っています。
もちろん、そこに「ささやかながら幸せに暮らす」という枕詞が付く筈です。

日々の暮らしの中に、自分の分に合ったささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁を得たと、感謝しております。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
それを願うばかりです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事でありますようにと念じます。

最後まで、いつもながらの趣向(酒肴)のある話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。