''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

一龍斎貞心、講談「赤穂義士銘々伝 倉橋伝助」 より。

弓の名手で、三千五百石の大身長谷川丹後守の次男、金三郎が家を飛び出し流浪の果て、賭場で知り合った人を頼って、上総の長南まで来ます。
そこで巡り合った床屋「いかり床」権次の家に、そのまま居候です。

 

その間三年感で床屋の修行もつけてもらい、権次の紹介で口入れ屋の上総屋の口ききで、縁あって名を母方の姓を名乗って、倉橋伝助と改め、浅野家に足軽として奉公することになります。

 

元来の弓矢の手ほどきを小さい時から心得て居りますので、その腕は買われて、内匠頭より士分に取り立てがトントントン決まります。
ここで、本採用となれば、身分を隠す事も出来ず、これまでの事を打ち明けます。

 

内匠頭の取りなしによって、親子の対面と相成りした。
この恩を忘れず、内匠頭の仇を討ったと言うストーリーです。
意外にうるうると来ます。

 

私的には、床屋の権次が、養子になって嫁をとって、後を床屋を継いでほしいと言うところが、何とも情が細かいです。
これは、演者の腕の見せ所です。

 

講釈師見て来たようなウソをいい等と言われます。
もちろん、この倉橋伝助の銘々伝も、嘘です。
どこから嘘と言われれば、最初から全くのでたらめです。

 

倉橋伝助は、父・武助の代に浅野長友に仕えます。
伝助七歳の時、父を失い家督を継ぎます。
九歳で父を亡くした内匠頭も家督を継いでいます。
そんな縁から近習の小姓として、内匠頭に仕えます。

 

ですから、大目付だの、3500石だの、全くの縁もありませんし、床屋の修行もしていません。
もちろん、博打のしなかったと思いますし、放蕩する期間もありません。
ただ、母が幕臣大平弥五郎兵衛の伯母に当たるくらいです。
ここから、話が知らぬ間に、大身旗本だの、大目付だのと、話が膨らみます。

 

全くの造り話が、講談では多い事があります。
その点、浪曲は脚色が入っている位です。
まぁー、赤垣源蔵の「徳利の別れ」も、造られた話でしたけどね。
講談も浪曲も、想像で楽しめる人情話ですからね。
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私は、髭が濃くありませんから、風呂場で髭を当てます。
電気しでなく、T字のカミソリです。
朝にもそりますが、夜は風呂場で、ジョリジョリです。
カミソリでそった方が、さっぱりするように思えます。

 

浪曲や講談だけでなく、落語にも床屋はよく出て来ます。
そう言えば、「崇徳院」も、床屋に出入りします。
笑福亭仁鶴さんの「崇徳院」も、熊さんの描写にフラがあって楽しめます。
いきなり床屋に入って「瀬をはやみ~」と声をだして、歌います。

 

「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」上の句と、下の句は「われても末にあはむとぞ思ふ」という恋歌です。
恋患いになる若旦那の命を救うべき、熊さんの珍道中です。
やはり、この頃は純真だったのでしょうね。

 

武士も同じです。
忠義と言う言葉に、憧れはあっても、現実には、無理があるのが、元禄の世です。
その世にあって、忠臣の物語は、人気の的だったしようね。
それが、こうした創作の作品になって来ました。

 

歌舞伎の「忠臣蔵」も、よくよく考えれば、創作ですからね。
講談も浪曲も、話芸には演者の腕が、冴えわたります。
その話の中に、どっぷりと遣っている私が居ます。
話芸の奥の深さが表れます。

 

そう考えると、5000万円のいい訳位もう少し出来そうなモノですのにね。
いい分が二転三転した所から、創作センスが悪いです。
イノセ(猪瀬)ントワールドって言いながら、純粋でない政治の世界でしたね。
都議会も、百条委員会を立ち上げたら良かったのにね。

 

あくまで、パフォーマンスだけでした。
政治の世界も茶番の世界です。
1年で辞めたって、1000万円の退職金なら、もらい過ぎだと思います。
世の中とは、不思議なものです。

 

太平の眠りを覚ます上機嫌 たった五千で夜も眠れず

 

オリンピック招致から、あっという間に、悪名高くなりました。
世の中とは、そんなものですね。
おもてなしは、どこにいったのやらです。

 

日々の暮らしの中にこそ、ささやかな幸せがあります。
ありがたいことに、私はその仏縁を得たと、感謝しております。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
それを願うばかりです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事でありますようにと念じます。

 

最後まで、五輪のいかり所の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。