高橋 泥舟(たかはし でいしゅう)
通称を謙三郎、明治以後は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号である。
母方を継いで高橋包承の養子となる。
生家の山岡家は、槍の自得院流(忍心流)の名家であり、長兄・山岡静山に就いて槍を修行、「海内無双」、「神業」に達したとの評を得る槍の達人になる。
生家の男子が、全て他家へ養子に出ており、長兄の静山が27歳で人助けの事故死、山岡家に残る妹の英子の婿養子になった小野鉄太郎が、後の山岡鉄舟であり、泥舟の義弟にあたる。
文久2年(1862年) 一橋慶喜(徳川慶喜)に随行して上京する。
文久3年(1863年) 浪士組結成、浪士取締役となり、従五位下伊勢守に叙任する。
徳川慶喜が、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者として、まず使命したのは選んだのは、泥舟であった。しかし、泥舟は、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代わりの使者、に義弟の山岡鉄舟を推薦、鉄舟は慶喜から直々に使者としての命を受け、駿府へ行く前に勝海舟に面会する。打つ手がなかった海舟は、このような状況の中で、敵方の征討大総督府 参謀の西郷隆盛宛の書を授ける。その後、江戸城無血開城に繋がるの大役を果たした。