''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

本所吉良邸 (赤穂浪士討ち入り現場)

 
 
 
 
 
本所吉良邸 総敷地坪数
土地   2,550坪
北 73間3尺7寸   (約133メートル40センチ)
南 73間3尺7寸
西 34間4尺8寸        (約63メートル63センチ)
東 34間2尺8寸
 
建物 建家坪 846坪余
内訳 本家  388坪余
   長屋  426坪余 
   以外には建物あり
 
 
(富森家に伝わる吉良邸屋敷図より 参照)
 
 

 

元禄14年(1701年)8月5日、町野酒之丞幸重(4千500石)改易処分。

元禄14年(1701年)8月12日、前住人の松平登之助信望(5千石の大身旗本)は、下谷の町野酒之丞幸重(4,500石の大身旗本)のものだった屋敷を拝領し、本所屋敷から立ち去った。

元々松平登之助信望の屋敷は、元禄11年(1697年)9月まで神田佐久間町1丁目北にあったが、同月の大火(勅額火事)に被災したことから、同年11月に本所御竹蔵跡地に屋敷(土地のみ)を拝領した。 そこに、新しく屋敷を造営して、僅か数年で転居させられたことになる。

(『ウィキペディアWikipedia)』抜粋、参照)

この後、同年8月19日、吉良義央江戸城の呉服橋から本所の屋敷を拝領し、ここへ移されて来た。

 

大石瀬左衛門の伯父が、松平登之助信望の家臣だった為に、その縁で屋敷の絵図面を手に入れたものである伝わる。

絵図面は、絵図奉行だった潮田又之丞にわたり、数枚が作られており、その一枚が現存する富森家に伝わる吉良邸屋敷図だと言う。

 

 

吉良邸の遍歴

鍛治橋の吉良邸 元禄11年9月の江戸大火で全焼

呉服橋の吉良邸 総坪数2,931坪 屋敷新築費 約2万5千両 (上杉家負担)