''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

内蔵助の母方親族  池田 由之 の 曾祖父 斎藤道三 娘の子 稲葉典通

 
 
稲葉 典通
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名豊後国臼杵藩2代藩主。
 

祖父・稲葉良通や父・貞通と共に織田信長に仕えていたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死ぬと羽柴秀吉に与した。このとき、父から家督を譲られている。天正13年(1585年)に官位と豊臣姓を下賜されたが、天正15年(1587年)の九州平定で秀吉の怒りを買って伊勢国朝熊に蟄居した。このため、稲葉氏の家督は父・貞通が再び継いだという。

文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると豊臣秀勝(秀吉の養子)に召し出されて朝鮮へ渡海し、戦功を挙げた。秀勝死後は豊臣秀次に仕えたが、文禄4年(1595年)の秀次事件で連座により処罰される。その後しばらくして、再び秀吉に仕えた。年代は不明だが、豊臣姓を下賜されている。

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と行動を共にし、慶長8年(1603年)の父の死により再び家督を継いだ。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方に与して参戦し、翌年の大坂夏の陣では遅参した。

寛永3年(1626年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光の上洛に随行したが、直後に発病して、11月9日に臼杵にて病死した。享年61。死後、家督は長男・一通が継いだ。

ウィキペディアWikipedia)』参照

 
父:稲葉貞通母:斎藤道三娘 (内蔵助の血筋)
 
 
一通(内蔵助の血筋)
本多貞虎室、(内蔵助の血筋)
諏訪忠恒正室(内蔵助の血筋)
吉田浄元室 (内蔵助の血筋)