''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

南天の茶碗で、一服の茶を喫する より。

朝からひんやりした一日ですね。
昨日は、私の郷里播州に帰省していました。
父や母が、孫娘を見て、目を輝かせて、喜んでくれました。
やはり、初めての孫娘は特別に可愛いようですね。

年をとってから出来た子ですから、その親はもっと年寄りです。
父80歳を越え、母ももうすぐ75歳の声を聞きます。

年から言えば、すでに孫と言うより、ひ孫の雰囲気でしょう。
すでに、我が家での甥が25歳になっていますので、ある意味ひ孫でもおかしくない位です。
ひ孫は、内孫以外なら、ある程度の遠慮がありますからね。

その点、孫なら遠慮も少ないです。
父も母も、変わり変わりばんこに、抱っこしていました。

我が家と違い、家ですから、下の階の住人に気遣う事もなく、ハイハイの練習に、めいいっぱい集中出来たみたいに、ゆうゆうの満足気な表情です。

こんなに外で笑うのかと言うほど、上機嫌の数時間でしたよ。
車に父の作った野菜を、ザルごと入れて貰って、お米も、ビールも、雑貨も、たっぷり乗せられるだけ乗せてくれました。
親とは、ありがたいものですね。

親になって分かる初めての気持ちかもしれません。
機会があれば、ゆうゆうを連れての帰省をしたいと思っています。

安全が一番です。
家内安全も、これ以上に幸せです。

昨日留守していた兄嫁が、手土産を用意してくれていました。
上等な和菓子の菓子箱を頂きましたね。
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それを見て、これは朝から一服茶を点ててくれと、嫁にお願いして、朝から一緒に頂きました。
嫁愛用の南天の茶碗です。
難を転じるとの、ゲンのいい意味合いがあります。

800グラムにも満たず、生まれて来た超未熟児のゆうゆうです。
それが、人並の赤ちゃんに見える程に成長してくれました。

難が転じて、福になっています。
捨てる神あれば、拾う神ありと言います。
悪い時も、いつかいい時になることがあります。

禅の言葉、禅語に「白雲自去来」(白雲自ら去来す)と言うのがあります。
もともと「青山元不動 白雲自ら去来す」と言う五言対句になっているようです。
動かざるモノと、動くモノの対比、それは、絶対観と相対観の対比でもありますね。

仏の世界は、絶対観の世界です。
それに比べて、人間の世界は、相対観の世界です。

何かに比べて、自分が幸せかどうかを知り得ます。
幸せが、回りと比べて感じられるモノではありません。
家族と共に、穏やかに暮らせるのが、私にとっては何より幸せです。

もちろん、健康であって貰いたいです。
時に家族が病になろうと、家族を思いやる気持ちが、幸せです。

人生には、いろんな事があります。
嬉しい事も悲しい事も、あるのが普通です。
その中にあっても、幸せの存在を持ち続けるのが、何よりの極意だと思われます。

日々是好日です。
雨の日もあり、風の日もあり、雨の日も、雪の日もあります。
それでも、すべて好日です。
甘いの、辛いの、苦いの、塩辛いの、複雑な味を味わうのも、これ人生ですね。

一服の茶を頂ける喜びを噛みしめて、茶を喫します。
饅頭も美味いとなれば、これ何より幸いです。
幸せと幸せで、もっと幸せです。

辛い事もあります。
嫌な事もあります。
それを踏まえて、味わえるささやかな幸せを見つける術があるんですよね。

歌じゃないけれど、♪幸せは、歩いて来ない、だから歩いて行くんだよ~、いえいえ、もっと達人になれば、歩いて行かないでも、身の回りに幸せは落ちていますので、それをただ拾うだけです。

どんな境遇にあっても、幸せを見つけることが出来ます。
その術を得られた人は、幸せだと思います。
幸せの本質は変わらないと思います。

今あることを思っても、幸せを見つけられます。
子供と嫁と3人で過ごせる事が、ささやかですが、幸せです。

もしかしたら、あの時、家族が3人でなく、1人も戻ったかもしれない危機がありました。
それを思えば、ささやかな人並の親子の暮らしが出来るのは、これ以上の幸せはないように思えます。

「晴れてよし曇りてもよし富士の山 元のすがたは変わらざりけり」BY 鉄舟

難を転じて、今ここに生かされています。
ありがたいと感謝です。

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、一服の茶を喫した和談の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。