''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

ラーメン紀行 山形米沢醤油味ラーメン より。

極月半ばの14日の昨日、玄関ドアの前に、人の気配を感じ、これは討ち入りかと、警戒しての合言葉の「山」「川」「豊」の合言葉をかけども、返事はなく隠し穴からみれば、クロネコの姿です。
これはと思いながら、ドアを開けたと嫁の弁でした。

♪波のまにまに命の花が 二つ並んで咲いている

「兄弟船」のテーマソングです。

うーんと、宛名を見れば、天満近くのある筋からのお届けモノです。
箱をあければ、いろんなラーメンが入っているラーメン紀行のシリーズです。
こりゃ、嬉しいと、小踊りモードでした。
いつもありがとさんです。
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最初に手にしたのは、山形米沢ご当地ラーメンシリーズです。
もちろん、食しました。
うーん、いつものインスタントの麺とは、少し趣が違います。
茹で上げると、少し生麺ぽい感じに仕上がっています。

スープも、本格的に醤油と脂の含んだ仕上がりです。
もちろん、胡椒も少々、一味も少々とフリフリモードでしたよ。

この時期、米沢と言えば、吉良殿息子が、米沢の上杉15万石の当主になっていました。
ですから、赤穂浪士の襲撃を逃れるために、雪深い米沢の地に、移送の計画があったように聞こえています。

その為、多くの方を招いて、お別れの茶会を開いたのが、吉良家討ち入りの前日です。
その情報を得て、当日は、本所松坂町の吉良邸に、在宅していたのが判明した事になります。(当時は、本所松坂町と言う地名は、まだなかった)

まさか、亡君の恨みを晴らす為にと、吉良殿投宿の上杉屋敷に打ち込みする事も出来ませんし、万が一米沢に逃亡されたら、主君の恨みを晴らす討ち入りは、事実上不可能になります。
最後のチャンスが、茶会の夜だったのです。

もともと、上杉家は、豊臣時代には、120万石の大大名でした。
それが関ヶ原の戦で、西方付いた為、減封されて米沢30万石となって、上杉の武名は、維持できましたが、吉良家と関ってから、当主綱勝(つなかつ)が急死して、我が子三郎こと綱憲(つなのり)を上杉の末期養子したことにより、30万石が15万石に再度減封されたことになります。

上杉の家臣にあっては、吉良殿の評判はよくないですね。
末期養子とは、世継のないまま、当主が急死した時に、死後慌てて養子をしたことにするある意味違法な養子縁組です。
吉良殿ごり押しで、敵いました。

吉良家と上杉家の関係は、吉良殿の妻が、上杉定勝(さだかつ)の4女・富子姫です。
急死した綱勝は、富子の兄、吉良殿とは義理兄と言う関係です。
その上、末期養子した我が子の綱憲の子・春千代を吉良家の養子(孫を養子)にして、この養子が流刑地で非業の死を遂げた吉良左兵衛義周殿です。

吉良家の娘は、上杉の養女として、それぞれ島津家、津軽家、酒井家に嫁がせています。
有力大名家と縁組が、何より強みです。
こうした大名家では、赤穂浪士を義士とは、扱わなかったようですね。

吉良家に打ち入った時に、男が100人近くいて、その内武士は80人ほどいたと聞きます。
その多くは、上杉家から手配された人員のようですから、本気で吉良殿に命をかけて救う義理はなかったと思われます。
赤穂浪士と吉良の男では、士気が違い過ぎます。
その中でも、養子の吉良左兵衛義周に上杉家から従って来た山吉新八は、攻防はすさまじかったと思われます。

後に、諏訪に流刑された吉良左兵衛義周に、最後まで仕え、その功績で上杉家に帰参してから、最後には200石の三十人頭 (また物頭)に昇進されたと聞きます。
忠義の臣は、上杉にも居たことになりますね。

因みに、吉良家では30石5人扶持、上杉に帰ってからは、5石3人扶持で仕官し、勘定頭で50石、三十人頭で200石に昇進したようです。
やはり、これだけの異例の昇進は、上杉の義周に対する忠義への報いのように思えます。

浅野家には、浅野家の、上杉家には、上杉家の忠義の物語があったようです。
この新八を主人公に、上杉から見た忠臣蔵のドラマが有ってもいいように思えますよ。
我が家では、ゆうゆう姫のご機嫌をとりないと、いけません。
父は辛しです。

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、ご当地の麺から見えた話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。