''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

太刀 銘 國行 「名刀の面影 刀絵図と日本刀の美」 大阪歴史博物館 その3 より。

織田信長公が、最も愛したモノの例えがあります。
信長は酔うと膝を叩いて「不動國行、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌ったといいます。
(不動行光に変わる例もあります)

 

つくも髪とは、名物の九十九髪茄子茶入(つくもがみなすのちゃいれ)です。
五郎左とは、家臣の「丹羽五郎左衛門長秀」の事ですよね。
そして、不動國行とは、不動明王が彫られた來國行の小太刀の事のようです。
江戸の明暦の大火で焼けて、筑前の信國重包が再刃を付けて、それらの写しが二振りばかりあると聞きます。

 

秀吉が、本阿弥光徳の「刀絵図」にも押形をとどめていると聞くのが、救いです。
こうした気、「刀絵図」は価値があると言う事です。
今回の展示でも、短刀の名手・粟田口藤四郎吉光の唯一の太刀「一期一振が、「刀絵図」で記されていました。
これで、見るのは、2度目です。
もちろん、額銘でしたね。

 

秀吉公は、凄いです。
天下の名刀・粟田口藤四郎吉光の唯一の太刀「一期一振」を自分サイズに、磨り上げて短くしています。(現在 御物)
もちろん、「一期一会」の刀バージョンからの太刀銘です。

 

本来の武士なら、考えられない事でしょうね。
背の低い秀吉には、この太刀が長すぎて、持て余すのかもしれません。

 

天下さまと言えども、この名刀を自分サイズにするのは、無茶苦茶です。
我こそ、天下さまと言う意識がしっかりあったと思えます。
一説には、磨り上げておらず、大坂夏の陣で、焼失した時再刃の時に、磨り上げて額銘にしたとの話もあります。

 

もともと93.5センチあったものを、秀吉公がこれを磨り上げて、68.78センチとし、銘を額にして嵌め込んだものであると、NO.22 御物 平野藤四郎吉光の『新・日本名刀100選』解説の中で、佐藤寒山氏が記載されています。
真偽の程は、素人には解りかねます。
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話は戻って、今回の「名刀の面影 刀絵図と日本刀の美」 大阪歴史博物館 では、國行の太刀が展示されています。
太刀姿も優雅です。
名刀には違いありません。

 

遠くから見る太刀姿からでは、身幅の広い堂々としてモノのようです。
元寇以降の太刀姿ですね。
國行の太刀は、一昔前の細身の優雅で優しい太刀姿も捨てがたいです。
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國行(評価値 1500万円)と言えば、山城國來派の事実上の祖と言われています。
山城國來派の本来の祖は、父の国吉と言われていますからね。
また、來孫太郎国俊(評価値 1800万円)の父でもあります。

 

國吉の現存する在銘作は、ほぼ太刀に限られていると聞きます。
在銘の短刀は、1本との事で、もともと島津家に伝来したものであるらしいが、所在が不明と、佐藤寒山著『新・日本名刀100選』「明石國行」解説の中で、あります。
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展示の國行にも、銘がありました。
独特の書体です。

 

上に記載した評価値は、売買代金ではなく、あくまでも評価の基準です。
時代と共に、値段の変動はありますし、国宝、重要文化財、重要美術品などと評価が付けば、もちろん、実際の価格は跳ね上がるでしょう。

 

素人的には、世俗的な金銭評価のある方が、ある程度日本刀に興味を持たれればいいと言う浅はかな考えです。
もっと、日本刀の評価を上げたいと考える一人です。
単なる武器としてでなく、歴史的価値や美術品としての評価、また精神的な支柱としての多面的な日本刀の存在意義があってもいいように思っています。

 

少しでも、多くの方に理解して頂ければ、これ幸いです。
まだまだ、このシリーズは続きます。
ご拝読ありがとさんです。

 

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、長い原稿(元寇)からの話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。