''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

刀 銘 和泉守兼定作/大永二年二月吉日源親忠 「名刀の面影 刀絵図と日本刀の美」 大阪歴史博物館 その4 より。

和泉守兼定とは、室町時代の美濃の代表的な刀工ですね。
もう一人、同時期の美濃の代表的な刀工と言えば、三本杉でご存知の関孫六兼元が有名です。
双璧と称せられる事が多いと聞きます。

 

特に、その二代目の兼定は、兼定の銘に「定」の字をウ冠(うかんむり)に「之」と見えるように彫るため、俗に「之定(のさだ)」と称されています。(評価値 1000万円)
その子、三代目兼定も父と同じ和泉守を受領して、「定」の字を「疋」と切ることから「疋定(ひきさだ)」と呼ばれています。(評価値 300万円)

 

銘にある源親忠は、形原(かたのはら)松平家三代の松平親忠のことと思われます。のちに徳川家康紀州徳川頼宣の手を経て伊予西条松平頼純に伝えられました。(大阪歴史博物館 ホームページの解説より 抜粋 )

 

大永二年は、西暦1522年に当たります。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」が、天文十三年(1544)遠江の国・井伊谷から始まる物語ですから、戦国乱世の時代と言う事になります。
そんな時代の美濃の刀工です。

 

二代目兼定は、初代兼定の子、吉右衛門または次郎右衛門と称し、永正八年(1511)和泉守受領「菊紋」を切るとも伝わります。
すでに、永正元年(1505)二月年紀の短刀の銘に「和泉守藤原兼定」と受領銘があると下記書籍の解説記載もあります。
イメージ 1

この時代の刀工が、「守」の受領を受けるのは、頗(すこぶ)る少ないとあります。
石井昌国氏の説によると、美濃国と朝廷の仲介をしたのは、斉藤家の重臣で、関の領主・長井藤左衛門尉長弘であったと、NO.69重要刀剣 「九字兼定」『新・日本名刀100選』解説の中で、佐藤寒山氏がこの説が妥当だと解説されています。

 

「九字兼定」の九字とは、『臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前』の九つの文字から成る真言で、邪気を払う所作とも聞きます。
九字の意味は、『臨める兵、闘う者、皆陣をはり、列をつくって、前に在り』とあります。

 

要するに、意味する所は、ご存知、「大江戸捜査網」のあの名台詞ですかね。
「隠密同心 心得の条我が命 我がものと思わず武門の儀 あくまで陰にて己の器量伏し御下命 如何にても果たすべしなお、死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」(笑)

映画や時代劇ドラマでは、忍者がよくやる呪いの様なものだと聞くと、少しだけ納得してしまいます。
イメージ 2

今回の展示は、刀 銘 和泉守兼定作/大永二年二月吉日源親忠と、日付の入った兼定の作は、見た事がないです。
特に、所持者の入ったモノも始めて見ました。
イメージ 3

キレそうな日本刀をイメージさせます。
キレ味の方は、最上大業物にて、キレ味の保証付きでしょうね。
この時代の刀が、実用的で一番よく切れると聞いた事があります。
って、誰が切ったのかと聞きたくなるのも事実ですけどね。

 

諸悪を断ち切り、悪人を叩き切ると言えば、こ存知、『破れ傘刀舟悪人狩り』の叶刀舟(かのう とうしゅう)です。
名台詞、「許せねぇ!」「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」ですよ。
腰にあるのは、朱塗りの鞘を持つ同田貫でしたね。

 

和泉守兼定や三本杉でご存知の関孫六兼元が出て来るのは、落語講談浪曲辺りですね。
なかなか通の話でないと、刀工の名は出て来ません。
和泉守兼定の名が、世に出るのは、再度幕末の新撰組副長・土方歳三の愛刀としてですね。

 

美濃の刀工でなく、会津藩御抱鍛冶になって、会津藩主・松平容保公より拝領の12代和泉守兼定です。
土方歳三の愛刀と言えば、和泉守兼定堀川国広(脇差一尺九寸六分)であったことは、広く知られているようです。

 

最近流行りの歴女辺りなら、熱狂する方も多いかもしれません。
今見ても、イケメンですからね。
今回の展示にも、歴女と思われる複数人連れの女性も見られました。
どうも、刀と言うアイテムが好きなだけで、刀剣鑑賞には、興味がないように思われます。
まだまだ、本当の日本刀再来ブームまでは、時間がかかりそうです。

 

それでも、ありがたい事です。
まだまだ記事は、続きます。

 

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、切れ切れの話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。