''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

大政奉還の150年目の真実。

今年が、大政奉還されてから、150年目の節目の年のようです。
記念硬貨も発売されていると、新聞の記事で読みました。

そんな中、大政奉還の150年目の真実が、毎日新聞の記事に出ていました。
大政奉還と言えば、徳川慶喜公が、政権を幕府から朝廷に返す行為を指すようですね。
歴史の教科書で習いました。
討幕の結末が、徳川幕府を倒すことでなく、政権を返上すると言う奇策であるとは、当時の武士でも、思わなかったと思います。

これにより、徳川家も1つの大名になっただけです。
徳川幕府としては、一つの狙いがありました。
350年以上幕府として政治を担当していた徳川家なくして、朝廷に政治をする能力がありません。

徳川幕府も、西洋の政治体制もオランダから情報など知っていたと思われます。
大名家が合議で政治をするにしても、その指導能力は徳川家にしかありませんから、議長的な扱いを望んていた筈です。

その為の政治機構を維持するための大政奉還だったと思っています。
大政奉還の基本的な発想は、坂本龍馬であって、それを土佐藩後藤象二郎が、山内容堂(前土佐藩主)を通して、徳川慶喜公に建言したと聞いています。
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大政奉還と言えば、居並ぶ大名を前に、二条城で徳川慶喜公を前にして、大政奉還を受け入れる絵が思い出されます。
これも、嘘だったと言うのが、毎日新聞の記事です。

記事の内容に寄りますと、当時出席していた新発田藩の京都留守居役の寺田喜三郎の記録から、慶喜公はこの場に出席せずに、老中の板倉勝静(かつきよ)が出座していたようです。
要するに、慶喜公が大広間で、大名たちを前に大政奉還を表明したのではないことが明らかになったようです。

「居残之分」として、残った小松帯刀後藤象二郎ら6人が、慶喜公と面会したようです。

何か拍子抜けした形になっています。
まぁ歴史とは、こんなものかもしれません。

これだけの大事も密室政治で行われたことが分かります。
150年も経ってからこんな資料が出てくるとは、不思議で仕方ないですね。
歴史の不思議としか言いようがありません。

大政奉還したことにより、明治新政府が出来たことは明らかでしたが、その後も討幕による攻撃が続いて、国内が混乱したことには違いありません。
当の本人の長い間の慶喜公の沈黙があったことに、まだまだ真実が分からないことが多いです。

まだまだもっと真実が出てくるかもしれません。
150年の節目に、いろいろと読み返したい小説や資料があります。

日々感謝して暮らさせてもらっています。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいと念じています。
ありがとさんです。