''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

見返り求めチャーいけません。 「無功徳」編

禅の言葉、禅語に「無功徳」というがあります。
まさしく功徳はありませんという意味です。
平たく言えば意味がないと言えます。
言いすぎでしょうか。

ダルマさんで有名な達磨大師の話です。

紀元五二七年、達磨さん(達磨大師)が、インドから禅(仏の教え)を伝えるために中国の国の一つ「梁」にやって来た。
梁の王様は、熱心な仏教徒である武帝という人物ありました。

この王様は、数多くの寺院を建て、僧侶や経典を敬い、仏教を厚く保護した。
自他共に認める名君であったのでしょう。
一生懸命に、仏に帰依していたのです。

そんな時、インドから偉い坊さんが来たというので、王様は自分のやっていることを自慢げに話し、最後に達磨さんから「それは良いことをなさいましたね。功徳になります」と言って貰いたかったのだと思います。

普通はそういうことになります。
しかし、達磨さんは「無功徳」(功徳にはなりません)とお答えになりました。
わけが判らなかったと思います。

いや大変なショックであったに違いがありません。
この夜、達磨さんはこの「梁」という国を逃げるように出て「魏」という国に行かれてしまいます。
「機が熟していなかった」と判断したのでしょう。

なんとも不思議な話に聞こえますが、ここが大切だと思います。
勉強や仕事は親や上司に褒めてもらうためにやっているわけではありません。
目の前のやるべきことがあるだからそれをこなす。

結果は、二の次、後から付いてくるものです。
でも、今の社会はせっかちです。
直ぐに結果を求め目先の利益が最優先であると考えています。
それも大切かもしれませんが、自分を見失ってはいけません。

南を見ていても、常に北を意識する。
「南に向かいて北斗を見る」(私のプログでも紹介しています。見てください)。

花は、誰のために咲いているのか。
「百花誰が為にか開かん」」(私のプログでも紹介しています。見てください)。

仕事も同じです。
「仕事をさせられているのか」
「仕事をしてやっているのか」
「仕事をしているのか」

どれも仕事をしていることには代わりません。

でも、どの意識でやっているのかによって仕事の質が違います。
何でも良いならそれもいいでしょう。
ただそれだけです。

適当に作った商品は買いません。
一生懸命作ってそれが美味しかったり、使い勝手が良かったり、便利であるから、つまり、商品の質が良いからその対価を払って買う。
いや、数に限りがあれば買わせてもらっている。
それぞれの立場によって変わってきます。

自分には自分の職分があり、自分しか出来ないことがあるはずです。
それが会社の一つの歯車であっても同じです。
私も歯車のひとつです。

歯車は歯車であると卑下することも自慢することもありません。
歯車でも必要がなければ不要となります。
ある以上は必要とされているんです。
小さな部品が一つ足りないだけでも機械は機能しません。

何かをやるのにいちいち見返りを求めては無粋です。
好きだからやっている。
今やるべきことだからやる。
それで良いんじゃないですかね。

ワンちゃんを育てるのは、大変ですが楽しいでしょう。
でも、可愛がったからといって何もしてくれません。

でも、そばにいてくれるだけでいいんです。
心が満ちます。
楽しいんですよね。

人それぞれ利益を考えずにやれる好きなことがあるはずです。
その間は幸せなはずですよ。
それにいちいち見返りは求めません。

その意味で武帝もまだまだ未熟だったんですね。(私ごときが述べる立場ではありませんがね)
無心に仏に帰依できれば、それで幸せであると思えるところに辿り着けばそれが幸せであります。

病気も同じです。
今日頑張ったからといって急によくなりません。
日々の積み重ねが必要です。

物事はくさらず、同じことの繰り返し、やってもやらなくても一日24時間です。
どんな人にも平等に与えてもらってます。

自分なりに頑張ればそれでいいじゃないですか。
それをどう自分なりに理解や意識するかは個個の問題です。

私は今日も元気に過ごせることにまずは「感謝」したいです。
出来ればいちいち感謝という意識すらせずに感謝できればもっといいと思います。

今日も生かされていることに感謝したいです。